さて、時は戦国、甲斐の躑躅ヶ崎館、その周りにある家臣団に与えられた屋敷のひとつ。
其処に住まう忍びが一人、猿飛佐助は悩んでいた。
悩みの原因は、おそらくは他の者にしてみると果てしなく如何でも良いようなくだらない問題であったが、この忍びにとって、それはほとんど死活問題に近かった。
敵襲の無い穏やかな夜でさえ眠ることも出来ず、久方振りに賜った休暇の時さえ佐助の心を煩わせる。
其れほどまでにこの忍びを苦しめる問題。
それは…


「おい佐助、聞いておるのか!」


この、己が唯一無二の主、真田幸村のことである。

日本一の兵、虎の若子、紅蓮の鬼。
大層な二つ名をいくつも持ち、家柄もそれなりに良く、少々猪突猛進なところはあるが勇猛かつ豪胆で、しかも貌かたちの優れたこの主。一見すると、短所など何処にもないように見えるのだが、ひとつ致命的な問題があるのだ。


「それでな、佐助。が…」


この主、とてつもなく、それはもうとてつもなく奥手なのである。
色恋に対して免疫も無ければ経験も無い。
言い寄ってくる女ならばそれなりに居たようだが、当の本人が朴念仁なものだから如何にもならない。発展もしない。
その主が、つい一年程前にとうとう女に恋をした。それ自体は非常に喜ばしいことなのだが、何の経験も知識も無い主は、事在る毎にこの忍びに助言を求めてきたのだ。煩わしいことこの上ない。
しかも最近その恋がようやく成就し二人の想いが通じ合ったのだが、さあこれでお役御免だと思っていた佐助の考えとは裏腹に、今度は終わりの無い惚気話を聞かされる破目になってしまった。
最悪である。
自分が必死で任務をこなし疲れ切って帰ってきた晩でさえこの主の惚気話は尽きることなく、佐助は本当にここを辞めてしまおうかと考えていた。

そんな主の最近の話題は専ら、あれのことであった。
あれとは、つまりそれのことである。
未だ二人は枕を重ねた仲では無いようなのだが、この主もまあ一応男だ、一丁前にそういうことも色々と考えているらしいが、きっかけを掴めないで居るようなのだ。
佐助にしてみたら、勝手によろしくやってくれ、と言いたいところなのだが、幸村があまりにも真剣に相談してくるものだから無碍に斬り捨てることも出来やしない。
元来面倒見の良い己の性格も相まって、ぐだぐだと文句を言いながらも結局主のくだらない悩みに付き合ってやっているのであった。


「もうさ、いいじゃん。がばーっとやっちまえば」
「がっ…佐助、破廉恥であるぞ!」
「何が破廉恥だよあんたしたいんだろそういうことを」
「そ、それは、その…だが!それではを傷つけてしまうやもしれぬ!」
「じゃ、しなきゃいいじゃん」
「そういうわけにはゆかぬ」


破廉恥破廉恥言うくせに、真顔で言い返す主に頭が痛くなる。
ああいえばこういう、佐助がどのような提案をしても、破廉恥だ無理だとんでもないと却下する主にいい加減嫌気がさしてしまい、佐助はとうとう、全てを丸投げすることに決めたのであった。












そうして、丸投げにされた運の悪い男が此処にひとり。
男の名前は、伊達政宗といった。

武田と伊達の同盟が相成り、領国にはひと時のものであれ、平和な時が流れている。
真田が忍びから「とても大切で紙面では言えない機密についての話がある」と言われ、政務の間を縫ってはるばる甲斐の国へとやってきたのだが。


「おい、忍び。どうなっていやがる」
「ほんと、頼むぜ竜の旦那。これ旦那の最重要機密事項だからさ」
「ふざけてんのか」
「もう俺様じゃどうにもならないの。助けてちょーだいよ」


到着していざ蓋を開けてみると機密だのなんだのというのは真っ赤な嘘で(「嘘じゃねえよ」と忍びが肩をすくめた)、要は真田の恋愛相談の相手になれと、そういうことなのであった。
これには政宗も参ってしまった。くだらねえと斬り捨てて帰るにも、奥州は遠すぎる。
笑い話にもならない状況だが、馬も休めなくてはならぬし、仕方なくこの茶番劇に付き合ってやることになってしまった。

まずはその女のことを聞かせろ、と言うと、会って見たほうが早いよ、といって忍びがひとりの女を連れてきた。
女の名前はといい、どうやらこの真田屋敷で働いている者のひとりであるようだ。
政宗の印象としては、可も無く不可も無く、といったところだ。
普段から見ている美姫たちと比べやはり見劣りはするが、くるくるとよく働きよく笑う娘だった。
成程真田はこういう女が好きなのか、と面白く思う。


「お前、真田の女なんだってな」


と聞くと、女の顔はまるで爆発したかのように赤くなった。
男が純情無垢なら女もそうかと、溜息をつきたくなる。
「わ、わたしはその、め、滅相もございません、そんな」としどろもどろになって言い訳をするに、笑いが込み上げる。そんなに懸命に否定されていると知ったら、真田はどんな顔をするのか。


「なんだ、違うのか」
「ええ、と…」
「違うならいい。そういや此処に来る前、良い女の揃った店を見たな。其処に真田を連れて行ってやろうと思うんだが、どう思う」
「駄目です!!絶対に、駄目!!!」


弾かれるように顔を上げたがあまりにも必死で、思わず噴出してしまった。「をからかったのですね!」と息巻く女に向かって、悪ィ、と手を振る。
どうやら真田の独り善がりというわけではなさそうだ。












「…で、お前あのとかいう女とはどうなってんだ」


奥州よりはるばる参られた客人、政宗殿に唐突に聞かれ、飲み込もうとした茶がおかしなところに入りそうになった。
「な、な…」と言葉にならぬ声を出しながら、脇息にもたれて寛ぐ男を見る。
どうして政宗殿が、のことを知っているのであろうか。
幸村は教えていない。屋敷の中にも、奥州の覇者相手にそのような些末な戯言を吹き込むような無礼を働く者はいないだろう。
ただひとりを除いて。


「…佐助でござるな」
「ああ」
のことは某個人の問題でござる。政宗殿がご心配なさるような事は何ひとつござらぬ故、放っておいて頂きたい」


つとめて冷静を装って、もう一度茶を口に運ぶ。
だが次の瞬間、「まだ手もつけてないんだってな」と言われ、今度こそ茶がおかしなところに入り盛大に噎せこんでしまった。
唇を戦慄かせ咳き込みながら、政宗殿の方を見る。
その、酷く可笑しそうに笑う様子に腹が立った。


「ま、政宗殿には関係なかろう」
「へえ、本当だったのか」
「だから放っておいて下されと何度申せば…」


今日、会って話をしてみたぜ。
政宗殿がそう言いながら懐から扇子を取り出した。
会った?に?一体、いつ会ったというのだろう。


「結構いい女じゃねえか」
「…!!」


目の前の男の、意味ありげな笑いに背筋が凍る。
ま、まさかとは思うが。政宗殿はに何かしたのであろうか。
そう考えたのを発端に、次々に湧き上がる不安が幸村の心を覆いつくした。
政宗殿は、若くして既に妻を貰い、さらに他にも美しい側室が何人か居たと聞く。
幸村と違い女の扱いを心得ており、口下手で不器用な幸村に対しよく回る舌も持っている。
まさか、幸村の居ぬ間にに言い寄り、口説き落とした、などということは…。


「着物の上からしか見てねえが、あれはなかなか、」
「な…っ、をそのような破廉恥な目で見るのはやめて頂きたい!」
「なんだよ、いいだろ別に」
「良いわけが無かろう!」
「真田ァ、お前あいつに手付ける気がねえんなら、俺に寄越しな」


の身体を眺め回した挙句、寄越せなどという政宗殿に、眩暈がするほどの怒りを覚えた。
寄越せ、だと?冗談ではない!
ひとの想い人を物のように扱い…なんたる侮辱かと、拳を震わせた。


「政宗殿、言葉が過ぎますぞ!」
「枯れるまでとっとくつもりかよ、勿体無ぇだろうが」
「もっ…」
「お前は出来ねえんだろ。じゃあ俺が貰ってあれを女にしてやるよ。城に住まわせて良い暮らしをさせて…」


ぼう、と頭に血が上った。
なんという言い草か。まるで人を腰抜けか何かのように罵り、あまつさえを手篭めにしようなどと。
そのようなこと、そのようなことは…


「許さぬ!」
「へえ」
「政宗殿にはやらぬ!」
「んなこと言ったってお前…」
を女にするのは某の役目にござる!某が抱いて某が嫁に貰うのだ!政宗殿は引っ込んでいて下され!」


ひゅう、と口笛を鳴らす政宗殿をにらみつけて、息も荒く立ち上がる。
「失礼致す!」と怒りにまかせて声をあげ、部屋を出ようと襖を勢い良く開けた。

そこで、幸村の時間が止まった。












こういうの、ないすたいみんぐ、っていうのかねえ。
天井裏で一連の出来事を見遣りながら、佐助は笑いを堪えていた。
主が壊しそうな勢いで襖を開けると、其処には何と件の女、の姿。
どうやら、二人に茶菓子を運んできたようだった。

は廊下にちょこんと座りながら、俯いていた。
その耳が、ここからでもそうと分かるほどに真っ赤に染まっている。
同じように、主の顔も、その装束と変わらぬ程に赤く染め上がってしまっていた。


「あ、な、、何故此処に…」
「お二人に、お茶菓子を、と…」


竜の旦那のほうを見遣ると、彼もまた佐助と同じように、この展開に笑いを堪えているようだった。
仰ぐ振りをして、にやにやと笑う口元を扇子で必死に隠している。
当の二人はというと、もう言葉も出ないといった様子で、お互いに見つめあったまま固まってしまっていた。
やはり駄目か、と思ったが、しかし。

暫くの沈黙の後、とうとう幸村が男を見せた。



「はっ、はい!」
「先程の某の言葉に、嘘はござらぬ」


の頬がさらに赤くなる。
幸村は幸村で顔に朱を昇らせてはいたが、何かが吹っ切れたようで、その姿は佐助が目を見張るほどに堂々としていた。


「某は、そなたを嫁に貰う心積もりにござる」
「は…」
「それを、覚えておいて頂きたい」
「幸村様…」


感極まった、という様子でが幸村を見上げる。
なんだかもうすっかり二人の世界だ。
が目を潤ませながら、小さく、だがしっかりとした声で「嬉しゅうございます」と言った。

その言葉を聞いた主の顔ときたら、佐助は一生だって忘れないと思う。
幸村のあそこまででれでれとだらけた顔を見ることなんて、もはやこの先一度だって無いだろう。

天井裏に佐助が居ることに気付いていた政宗が、こちらに向かって目配せをする。
佐助は初めて、伊達政宗に真剣に感謝した。
流石は旦那の好敵手。大感激。








そうしてその夜、幸村が自室へと戻ることは無かった。








こうして、佐助の元にまた静寂と平穏が訪れ、全てが丸く収まり、一見落着。
めでたしめでたし…
…と、そうは問屋が卸さなかったのであった。


「あの時のは、大層かわゆかった…」


もう二度と見ることはないだろうと思っていた、主のでれでれにだらけた顔を見ながら、佐助は大きく、深い溜息をついた。
惚気。惚気。惚気。惚気の嵐。
以前よりも、状況は更に悪化していた。幸村の惚気は留まるところを知らず、佐助の貴重な睡眠時間は減少の一途を辿っている。
こんな筈じゃなかったのに。これじゃ、旦那が童貞のままの方がまだましだった。
時間よ戻れと祈ってみても叶う筈もなく、佐助は主の言葉を右から左へ聞き流しながら適当に相槌を打った。
佐助、聞いておるのか!という叱責の声に、心の中で「聞きたくねえよそんなもん」と言い返す。


「あーそう、よかったね」
「うむ!」


太陽のような幸せな主の笑顔が眩しい。
あーーーもう!!!



そういうことは他所でやってくれ!





(081208)