厳しい冬があけて、いつもよりも少し早い春が目を覚ます。
梅の花が咲き始めて暫く、とうとうその日がやってきた。

昨夜はよく眠れましたか、心よりお喜び申し上げます、今まで世話になった侍女達が涙を浮かべながらに頭を下げる。
ひとりひとりに声をかけて別れを惜しみながらも、はこれからのことで頭が一杯だった。
ちょっと待って。そう言ったら出立が延びるだろうかとも考えたけれど、そんなこと出来る筈も無い。
ただただされるがままに、白粉を塗りたくられ紅を引かれ髪を結われ、体中が白で覆われる。
輿の中で揺られて、胸の中をぐるぐると回る不思議な感情に翻弄されているうちに、気が付くといつのまにか目的の場所に着いてしまった。

今日、この日、はついに幸村の妻になる。

あれよあれよという内に、婚姻の儀はあっという間に終わってしまった。
失敗したらどうしよう、誓杯の儀のお神酒はちゃんと飲めるだろうか、美味しくなくて噴出しそうで怖い、なんて馬鹿な心配をしていたのだけれど、それは全て杞憂に終わった。
全てが滞りなく進み、けれどその間は一度も幸村の顔を見ることが出来なかった。
綿帽子があったから、と自分に言い訳してはみたものの、やはり心は誤魔化せない。


春が来れば、姫は某のものだ。


秋の終わり、冬の入り。
今夜の生涯の夫となる男は、静かな目でそう言った。
その時のことを思い出すたび、は胸の内から湧き上がる耐えられぬほどの感情に、頭を抱えて蹲りたくなる。
これが一体どういう感情なのか、未だに名を付けることが出来ずにいた。
恋かと言われれば、首を振る。侍女達が話す"恋"とは全く違っているから、きっとが幸村に感じているこの感情は恋ではない。
どちらかというと羞恥に近い、とは思う。
幸村のことを思い返すたび、ふいに目が合うたび、逃げ出してしまいたくなるのだ。
この男との結婚が決まってから今まで、実際に彼から逃げるように過ごしてきた。彼の忍びや侍女たちがやれやれと苦笑してしまう程に、逃げて続けてきた。
けれど。


殿」


今宵、遂に退路は絶たれた。
白くすべらかな褥の上ではすっかり怯えてしまっていた。目の前に座る幸村の顔を見上げることもできずに、ただただ俯きながら自分の腿の上できつく手を握り締める。
「そのように怯えられるとは、些か堪えますな」と幸村が小さく笑った。
その後に続いたわずかな衣擦れの音にすら、びくりと肩が震えてしまう。
知らなかった、自分がこんなにも臆病な人間だったなんて。

す、と幸村の手が上がり、こちらに伸ばされたのが目の端に映った。
幸村の親指が、優しくの頬を滑る。
まるで、強く擦ったら傷がついてしまうと思っているかのような触れ方だった。
触れるか触れないかのあたりを彷徨う指がくすぐったい。
頭に血が上って、頬が熱くなってきたのが自分でもわかる。
これが幸村に伝わっていませんように、と願いながらはきゅうと目をつむった。


「それ程に、某が恐ろしゅうございますか」
「え?」
「震えておられる…」


幸村が、もう片方の手も持ち上げ、の顔をその大きな両手でそっと包み込んだ。
そのまま、ごく弱い力で顔を上に向けられる。
このとき、この部屋に入って始めて、は幸村の顔を真正面から見た。
幸村は、いつものような優しい微笑を浮かべてはいなかった。
どこか無機質で、なんの感情も読み取れぬ顔をしている。
ただ中心にあるふたつの目だけが、力を湛えてこちらをじいと見つめていた。
その目の力に、また恐れが湧き上がってくる。目を逸らしてしまいたくて堪らなかったが、幸村はそれを許さなかった。


殿は、某が恐ろしいか」
「そんなこと、ないよ…」
「ここまでずっと、そなたは某を避けておられたな」
「それは、」


違う、とは言えない。
避けていたのは事実だった。でも、幸村との婚儀が嫌だったわけではない。
ただ、どうして良いかわからなかっただけなのだ。


殿欲しさに、肝心のそなたには何も話さず事を進めたこと、某は謝ろうとは思いませぬ」


頬を包む手が下がり、首にかかった。
くすぐったくて肩をすくめてしまいたかったけれど、そんな子供っぽいことをしたくなくて、我慢する。
そのまま下がった大きな手が、の肩を優しく押す。ぐらりとよろめいて倒れそうになったところを、幸村がもう片方の手を背中に回して受け止めてくれた。
ゆっくりと褥に押し倒されて、また急に恐ろしさが湧き上がってくる。
咄嗟に幸村の胸に手をついて押し戻そうとしたのだけれど、そんなの抵抗も虚しく背中に褥の感触が伝わり、覆いかぶさった幸村によって天井が隠されてしまった。


「ま、待って」
「もう十分、お待ち申し上げた」


見上げた先の幸村の目が怖い。
覚悟したと思っていたのに、いざその時になって、自分をどうにかしようとする男の圧迫感には竦んでしまっていた。
もう十分、お待ち申し上げた。
一体いつから、幸村は自分のことを想っていたんだろう。
いつも優しく微笑んでいたあの表情の下で、本当はずっとをこうしたいと考えていたのだろうか。


「今より、そなたを某の妻とする。宜しいか」


強い声と目に、否、なんて首を振ることは出来ない。
とうとう来たのだ、この時が。
震える手を握って、小さく首を縦に振る。
その様子を見て、漸く幸村が優しく顔を綻ばせた。


月の光だけが差し込む部屋、覆いかぶさる幸村が吐息に乗せて呼ぶ自分の声が、まるで幻のように感じる。
ぎゅうと抱きしめる腕は力強く、初めて感じた男の肌は自分のものよりもずっと熱い。
これからの身体に訪れるであろう出来事は怖いが、触れる指は優しくの恐れを溶かしてゆくのだ。

「そなたを大切にする、必ず」

触れ合う唇のあわいから漏れた熱い呟きに、胸がきゅうと詰まる。
ちらりと見えた幸村の舌は、闇夜のなかでまるで血のように赤い。

ああ、ここからはもうの知らない世界だ。








(081019)