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父上から、結婚の話をされたのは、そろそろ冬になろうかという頃だった。 結婚、といっても父上が側室を迎えるという話ではない。 の、結婚のことだ。 どうやら自分は、春がきたら嫁に出されるらしい。 小さな茶室で、父上の口からその話題が出たとき、は「ああ、とうとうきたのか」と思った。もっと衝撃を受けるだろうと思っていたのだが、実際はそれ程でもなかった。 あまり現実味が無かったのだ。 嫁に出す、と言われても、全く実感が沸かなかった。騒ぎ立てることもせず、ただ父上や皆と離れるのは寂しいと、ぼんやり考えていた。 が取り乱したのは、夫となる男の名前を聞いたときであった。 一瞬、息が止まり声が消えて、瞬きすら忘れてしまった。 その男は、がとても良く知る人物だったのだ。 庭の木々が落とす葉が、茶色の土を赤や黄色や橙に染め上げている。 池に落ちた葉が水面に波を作る様子を、はただ黙って眺めていた。 頭の中で考えているのは、じき、自分の夫となる男のことだ。 今まで、こんなにあの男のことを考えたことなんてなかった。 彼はの周りに大勢居る大人のうちのひとりだ。 勿論はその男にとても懐いてはいたが、まさかこんなことになるなんて思いもしなかった。 最近は、一日の半分くらいはあの男のことを考えている。 澱んだ池の底を泳ぐ黒い鯉を追って足を踏み出すと、渇いた落ち葉が砕ける音がした。 どうすれば、いいんだろう。 父上に話をされたあの日から、はずっとそのことばかり考えていた。 どうするもこうするも、最早道は定まっているのだから、後は流れに任せていればいいのだ。 足掻いたって仕方が無い。わかっている。 だって、相手があの男ではなくて、他の知らない誰かだったらこんなに悩まなかったかもしれない。 でも、今までずっと、兄のように友のように慕ってきた男だ。急に「夫だ」と言われても、どうすればいいのかわからない。 結婚したら、はきっとこの城から離れてあの男の屋敷に行って、あの男の子供を生んで、あの家の為に生きるのだ。 彼を「殿」と呼んで、彼の妻になるのだ。 全く、想像がつかなかった。 足を引き摺るように歩いていると、後ろで誰かが落ち葉を踏み荒らす音が聞こえてきた。 振り向いてその人物を確認し、は身体が強張った。 「殿、このようなところで如何致しました」 優しく微笑むその人はまさに、今が頭の中で考えていた人物だった。 後ろに長く垂れた髪が、今日は結われずに風に流されている。 真田源二郎幸村。それが、彼の名前だった。 「風が冷たくなって参りました。中に入られた方が宜しい」 「まだ、ここにいる」 「何を見ておられるのだ」 「鯉」 本当はあまり鯉なんて見ていなかったけれど、此処に居る理由が欲しくて、そんなことを言った。幸村が落ち葉を踏みつけながら此方へと歩み寄ってくる。 隣に並ばれて、は少し息が詰まった。 幸村と腕が触れ合いそうだったから、自分の身体を抱くようにして少しだけ距離を離す。 なんだか少し暖かくなったような気がしたけれど、それは幸村が風上に立ってくれたからだと気が付いた。 落ち着かなくて、腕を擦ったりつま先で土を叩いてみたりしながら、鯉を目で追いかける。 「こうして、二人きりで話をするのは久方振りでござるな」 「そうだったかしら」 「殿は、最近某を避けておられるようだ」 「そんなこと、」 無い、と言いかけて口を噤む。確かにこれまでは暇さえあれば幸村のところに行き、他愛もない話をしていたものだが、結婚の話が出てからは訪れていない。 どういう顔で幸村の前に出て行けばいいのか、わからないのだ。 今も、一体何を話していいやら、いつも下らぬことをぽんぽんと吐き出していた筈の口が、まるで貝のように閉じてしまっている。 居た堪れなくなって、適当な理由をつけて自室へ戻ろうかとようやく口を開きかけた時、幸村が「姫」と穏やかな声でを呼んだ。 「覚えておられますか」 「なにを?」 「一月程前になりましょうか。殿が某に尋ねられた」 「なんのこと?」 「某が、これまで嫁を取らずに居った理由でござる」 ああそういえば、と思い出す。本当に、あれが一月前のことだなんて信じられない。 幸村に、何故嫁をとらないのだと聞いたことがあった。 あの時幸村は、じきににも分かると言って教えてくれなかった。 結局、その答えは分からず仕舞いだ。 それなのに、いつのまにかが幸村の元に嫁に行くことになってしまっている。 「あの時の答え、お分かり頂けましたか」 「わからないわ」 幸村は、少しだけ驚いたように目を開いて、それから困ったように息を吐いた。 「然様でござったか」 こちらを見下ろす幸村の目を見ていられなくなって、はまた池に視線を戻した。 「さて、困ったものだ」 「なにが?」 「此処まで来れば、言わずとも分かるものと思っておりました」 「…幸村はいつもそうやって、何も言わないんだもん」 わたしが、そういうの得意じゃないって知っているでしょ、と口を尖らせる。 もやもやとした気持ちが胸の中に溢れる。 もういい、と踵を返そうとしたところを、幸村がまた「殿」の一言で押し留めた。 名を呼ばれた、それだけで足に根が生えたようになってしまうのはどういうわけだろう。 幸村の言葉には、何故か人を従わせる不思議な力があるのだ。 「某が、強請ったのです」 「…え?」 強請る、だなんて幼稚な言葉が幸村の口から出てきたことに驚いた。 見上げると、幸村がいつかと同じような、優しくて、でも底冷えする笑みを浮かべていた。 「お館様に、姫を下されと強請った」 言われている意味が分からず、呆けたように幸村を見つめる。 目の前の男は、笑みをいっそう深くした。 「此処まで来るのに、随分時間がかかってしまったが」 幸村が、ぶらんと横にぶら下がっていたの手を取った。 ごく弱い力で掬われているだけなのに、振り解くことの出来ない圧力を感じる。 「殿、もうお分かり頂けましたか」 「え、…と」 「某がこれまで嫁を取らずにおった理由は、そなただ」 耳に入った言葉が、頭まで届くのに随分かかった。 幸村が嫁を貰わずにここまで来た理由は、わたし。 それはつまり、…。 理解した瞬間、体中が心臓になったかと思った。顔がぼうと熱くなる。 誰かにこのように言われたのは、生まれて初めてのことであった。 そもそも、いつも女ばかりに囲まれて育っただ。 色恋などこの狭い城しか知らぬには縁の無いことであった。 それがまさか、このような形で、しかもこの男から想いを告げられることになろうとは。 「わたしは、」 「姫が欲しゅうて堪らなかったのです」 「だって、だって」 「殿でなければ、他の誰も嫁になど欲しくは無いと思っておりました」 幸村が、少しだけ強くの手を握った。 振り解くことも、逃げ出すことも出来ず、足が震えるような気がするけれども座り込むわけにもいかず、途方に暮れる。 だって確かには幸村のことを気に入ってはいたけれども、それは兄や友に向ける親愛であり、色恋とは違う筈だ。違わなくてはいけないのだ。 「殿」 「や、やだ」 幸村が、の手を持ち上げて己の口元まで運んだ。 ふ、と吐かれた幸村の熱い息が手にかかって、足が竦む。 ばくばくと、自分の心臓の鳴る音が耳元で聞こえてくるようだ。 幸村の唇が、の指の背に触れた。 「殿は、某の妻になるのです」 逃げかけた身体をその場に留めるかのように、幸村のもう一方の手が肩に置かれた。 すっ、と大きな手が肩から腕を滑り、胸が高鳴りどうしようもなくなって、は視線を足元に向けた。なんだか、泣いてしまいそうだった。 「雪が融け、春が来れば、姫は某のものだ」 いつもより幾分か低い声が、の耳元から止めを刺した。 動くことも声を出すことも出来ず、石のように固まったの肩に、ふわりと衣がかけられる。幸村が羽織っていたものだろう。 これまでは意識すらしていなかったのに、その羽織から香る幸村の匂いに閉じ込められて、はいよいよ動けなくなった。 「早う、部屋へお戻りくだされ。今日は特に冷える」と言い残して、来たときと同じように渇いた落ち葉を踏みながら、その男が遠ざかってゆく。 ――春が、来れば。 ごう、と風が落ち葉を巻き上げた。 目の前に、秋の終わりを告げる赤がちらつく。 ああ、今は冷たい冬の混じったこの風ですら、頬の熱さを治めてくれそうにない。 (081003) |