ごろりと寝転がり見上げた天井、そこにあった染みが人の顔のように見えた。
指をさして「見て、あれ顔みたい」と伝えると、「殿は幼き頃、あれをあやかしだといって泣いておられました」と笑い混じりのいらえがあった。

ころ、と身体を声のほうへ向ける。
大きな背中を向けて、幸村はまだ何か書きものを続けているようだった。
墨のにおいがする。幸村の手が筆を硯に運ぶ様子を見ながら、きれいな手だな、と思った。
大きくて骨ばっていて、指が長い、男のひとの手だ。
背中は大きくて、たぶん、なんかが体当たりしたってびくともしないんだろう。
いつでも落ち着いていて、穏やかで、頭だっていい。

真田幸村という男は、が知っている中で一番完璧な男だった。
こうして、静かに墨を擦る幸村を見ていると、虎の若子やら紅蓮の鬼やら、なんだか怖そうな呼び名があてられる程勇猛な武将だとはとてもじゃないが思えない。
昔は、すごく騒がしくって猪突猛進な男だった、と幸村の忍びが言っていた。
でも生憎と、はそんな幸村の姿を見たことがないからわからない。
幸村は最初から、穏やかで優しい男だった。

彼はよりもずっと年上で、何でも知っている大人だ。
昔は、はやく大人になって幸村に追いつきたかったけれど、近頃では無理はしないほうが良さそうだと思い始めた。どんなに頑張ったって、やっぱり幸村には適わない。
は今年で十六になった。
十六くらいになったら、幸村と肩を並べて歩けるようになるに違いないと思っていたけれど、それは間違いだった。が大人になった分だけ、幸村はもっと先へ進んでいくのだ。


「ねえ、幸村」
「はい」
「父上が、幸村は死ぬまで誰も娶らぬつもりか、って嘆いていたわ」
「お館様が、でござるか」


それはそれは、と幸村は面白そうに笑った。


「お館様も、お人が悪い」
「どうして?幸村を心配しているんだわ」
「そうでござろうか」
「そうよ」


寝転がったまま、幸村の背中に向かって話しかける。
さっきから、返事はしてくれる癖にこちらを向いてくれない幸村に、ちょっとだけ苛立ちながら。


「お館様は、某が嫁をとらぬ理由を知っておいでだと思っておりましたが」
「理由?理由ってなに」
「それは、教えられませぬ」
「いいじゃない。誰にも言わないわ」
「言えませんな」


意地悪、ねえ教えてよ。
まるで童のように駄々を捏ねてみる。
幸村がやっと筆を置いて、ゆっくりとこちらを振り返った。
目が合って、どきりと心臓が跳ねる。
見れば見るほどに、きれいな男だと思う。悔しいから絶対言ったりしないけれど。


殿、それはあまり感心致しませぬ」


ごろごろと寝転がっていることを注意されたけれども、このまま話を逸らされては堪らない。
「ごまかさないで、教えてよ」と強く言うと、幸村はすうと目を細めた。
畳の上を摺るように近付いてきて、天井が幸村で隠れてしまった。
寝そべるを、腕でまたぐようにして、幸村がこちらを見下ろしてくる。
投げ出していた手に、幸村の指先が触れた。や女中たちと違って、硬い指だ。
なんだか急に気恥ずかしくなって、少しだけ触れ合っていた指先を逃がそうとする。
それを追って、幸村はゆっくりと、しかし意志を持っての指に己の指を絡ませてきた。
の指と指の間に、幸村の、よりも随分太い指が入りこむ。

見上げた先、幸村が笑っている。とろ、と融け落ちそうな笑みだ。
細められた目はまっすぐにを見て、弧を描いた唇が目を惹きつけて離さない。


「では、殿の考えをお聞き致しましょう」
「え?」
「某が嫁をとらぬは、何故だと?」
「え、えーと…」


目を合わせていられなくなって、ふいと横を見る。
すると、絡められた指が目に入って、もっと恥かしくなった。
幸村が、喉の奥で笑って、絡められた指が蠢く。


「わ、わからないよ」
「すぐに諦めるのは宜しくない。少し、考えてみてくだされ」
「幸村が教えてくれればいいじゃない」


拗ねたように唇を尖らせると、幸村は楽しげに喉を鳴らした。


「分かりませぬか」
「わかんないよ」


勿体ぶらないで教えてよ、とちょっとだけ苛々しながら声を荒げると、幸村が肘を曲げて、少しだけこちらに近付いてきた。
そうして、絡ませていなかった方の手で、そっと頬を撫でてくる。
幸村の手は、少し冷たい。ごつごつした手がくすぐったくて身を捩ると、幸村がまたもう少し顔を近づけてきた。
その近さに一瞬怯む。だけどそれを幸村に知られたくなくて、平気なふりをした。


「教えても宜しいが」
「うん、教えて」
殿が逃げてしまわぬか心配だ」
「逃げないよ」
「まことか?」
「どうして幸村から逃げる必要があるの」


じい、と幸村がこちらの目を覗き込んでくる。
すごく気恥ずかしくて、目を剃らしてしまいたかったけれど、いま目を剃らしたらきっと幸村はまた笑って誤魔化してしまうと思って、必死に見つめ返した。
頬を撫でていた幸村の手が、額にかかった前髪を払った。
そうして、ばらりと床の上に散らばるの髪を手に取り、それを弄る。
いつのまにか、幸村の顔から笑みが消えていて、は少しだけ怖くなった。


「さて…」
「なに、はやく言ってよ」


暫くの沈黙の時間があって、その間に、気恥ずかしさに耐えられなくなったの方が、幸村から視線を外してしまった。
すると幸村が笑った気配がして、絡まった指が離れ、幸村の落としていた影が消えた。


「今は止しましょう」
「な…なんで!」
殿がもう少し大人にお成りになったら、教えて差し上げます」


ばっと起き上がって、幸村の方を睨む。
わたし、もう大人だわ!と息巻くと、幸村の唇がまた弧を描いた。
「知っております」と静かな声がを宥めようとする。


「それに…わざわざ教えずとも、じきに殿にも分かりましょう」
「だから、わからないって言ってるのに」
「分かります、嫌でも」


床についたの手の上に、幸村の大きな手が重ねられる。
ひんやりしていた手は、すっかりと同じあたたかさになっていた。
幸村の、どこか掴みどころの無い笑顔から、これ以上聞いても無駄だということがわかった。
「じきにって、いつなの」と文句を言うと、幸村は「なに、直ぐでござる」と笑みを深くする。


「その時が来れば、嫌だと駄々を捏ねたとて、知って頂くことになる」


大きな手が頬を撫でる。
「その時を楽しみにしております」と言った幸村の声が、いつもとはまるで別人のようだった。
心臓が早まり、幸村の顔を見ていることができなくなって、は苦し紛れに庭の方を向いた。

「姫…」と低い声に呼ばれて背筋がぞくりと震えたのは、絶対に、秋の冷えた風の所為なのだ。









(081002)