|
腐って、
「何事も、中庸が良いんだって」 足袋も履かぬ素足を揺らして、濡れ縁に腰掛けた姫が俺に話しかけてくる。 姫の話はいつも唐突だ。今日も、何の脈絡も無く始まった姫の言葉に俺は耳を傾けた。 姫の一言一言、息遣いさえも洩らさぬようにと聞いていながら、「ふーん」「へー」と素振りだけは気の無い振りを続ける。 「佐助、聞いてるの!」という彼女の声を聞くためだ。 「たとえそれが良いものでも、沢山在りすぎるってあまり良くないことなんだって」 「誰に聞いたの?」 「琴の師範」 お琴の先生はそんなことまで教えてくれるのかい、とからかうと姫はそっぽを向いて、不機嫌な猫の尻尾みたいに足を揺らす。 「過ぎたるは猶、て奴だね」 「お薬も沢山飲むと毒になるんでしょ」 「そうだよ。よく知ってるね」 「知ってるわ、それくらい」 わたしは何でも知っているのよ、と言うように何も知らない世間知らずの姫が笑う。 「はいはいそうですね」と返事をすると、口を尖らせながら俺の背中をぱしんと叩いてきた。 風も通らず雨にも降られない、暖かな場所で大切に育てられてきたお姫様。 この世の美しいものしか知らない彼女は、佐助にとって信じられないくらい眩しい存在だ。 その眩しさに好奇心が疼いて、近くへ寄ってしまったのが運の尽き。 初めは目だけで姫を追い、 次には耳で声を追い、 今度は鼻で焚き染められた香を追い、 それだけでは飽き足らず、さらにはこの腕で白い指先を追う。 遂に己の五感全てが姫に向けられ、心までもが姫を追うようになった。 成程、何事も中庸が肝心とは良く言ったものだ。 少しばかり近付きすぎた、と気が付いた時にはすっかり手遅れになってしまっていた。 太陽に当てられ過ぎた果物が熟れてぐずぐずと腐ってゆくのと同じように、姫に近付き過ぎた己の心は既に甘く腐り、爛れ落ちようとしている。 この今にも腐って落ちそうな爛れた匂いを隠す為に、どろどろと煮崩れる心に蓋をしながら、俺は何食わぬ顔で姫に笑いかける。 この腐臭にまだ気付かぬ姫は、そうとも知らずにひらひらと俺の周りを飛び回るのだ。 まるで蝶を刈り取る蟷螂のように、俺が毎夜夢想の中で姫を狩っているのだと知ったら、彼女はどんな顔をするのだろう。 「でも、程々で我慢出来ないから皆困ってるんだよね」 「そうだね」 「幸村も私も、我慢出来てたら最初からあんなにお団子食べたりしないもの」 「それ前から言おうと思ってたんだけど、姫さんも旦那もね、食べ過ぎ」 だって無理よ、美味しいんだもん。そう言いながらはまた足を揺らした。 「佐助には無いの?」 「俺様?」 「そう。駄目って分かってるんだけど、程々になんて出来ないのーってもの」 無邪気な顔をしながら姫がこちらを見上げてくる。 佐助は忍びだから、そういうのもちゃんと我慢できるように幼い頃から訓練を受けたりするんでしょ? のそんな言葉に生返事をしながら、伸びやかに育った白い脚をちらりと盗み見る。 今、この手に黒鉄の篭手が嵌められていなければあそこに手を伸ばせるのに、という考えが頭に浮かんで、自嘲する。 いや、篭手なんて関係ない。手を伸ばさない理由は只一つ。 俺はきっと恐ろしいんだ。 旦那でも、彼女の父である武田の総大将でも無く、姫と自分が恐ろしい。 俺が触れたら、も俺と同じように腐ってしまうだろう。 篭手や布越しでなく、肌と肌とが直接触れればきっと、佐助の中にあるどろりとした感情がを侵食して後戻りなんて出来なくなってしまう。 そうしたら、綺麗で純粋で太陽みたいな姫は恐らく、永遠に失われる。 「ねえ、無いの?」 ああ、それでも俺は、 姫の無垢で可愛い顔が、恋やら欲やらに腐る様を見てみたい。 風に揺らぐその髪が、褥に散る様を見てみたい。 触った真白の肌が、甘く爛れる様を見てみたい。 ころころとよく笑う口から、瘴気のように熟れた息が吐かれる様を、見てみたい。 「俺様には無いよ、そんなもの」 中庸だなんて言ってられない。 きっと近いうちに、ずっと俺を封じてきたこの箍が遂に砕け落ち、 俺の薄汚く浅ましい恋着が姫を腐らせる時がやってくるだろう。 爛れて、
(081030) |