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すっかり暗くなってしまった道を小走りで駆ける。 時計を確認し、その短針が9時を少し超えているのを見て小さく舌打ちをした。 携帯の電源が切れてしまっていたから連絡すら出来なかった。 こんなことなら、昨日ちゃんと充電しておくんだったと後悔しても今更遅い。 (心配してるかねえ) 普段は、佐助よりもの方が遅くに帰って来る。 だが朝の段階で「今日は早めに帰ってくる」と言っていたから、今頃はもうとっくに帰ってきているだろう。 マンションに辿り着き、エレベーターを待つ時間も惜しくて階段を駆け上がる。 部屋の前に立って、いつものように鞄から鍵を取り出そうとして、やめた。 ドアノブを握って、そうっと引いてみる。扉は抵抗無く開いた。やっぱりもうは帰ってきているみたいだ。 (あれ?) 扉を開いて覗き見ると、中は電気もついておらず、真っ暗だった。 誰かが居る様子もない。 ぱち、と玄関の明かりをつけると、今日が仕事に履いていったパンプスがあった。 やっぱり帰ってきているのか、それともまたどこかへ出かけていったのか。 どちらにしても、玄関の鍵を閉めておかないなんて無用心極まりない。 「ただいまー…」 なんとなく小声で、帰宅を知らせる挨拶をする。 リビングにも明かりはついておらず、真っ暗だった。 部屋の中をぐるりと見回して、佐助は目的の人物を発見した。 ダイニングテーブルに突っ伏している人影。 この部屋の主で、佐助の飼い主殿だ。 茶色の髪が乱れきっている。そっと近づいて、頭のてっぺんの毛をくるくると指に巻きつけると、が身じろいだ。 「さすけ…?」 掠れた声が佐助の名前を呼んだ。「うん。ただいま」と言ったけれど、それに対しての返事はなかった。 が気だるげに少しだけこちらに顔を向けたけれども、だらりとかかる髪のお陰で、どんな表情をしているのかはいまいち読み取れなかった。 取り敢えず、あまり機嫌は良く無さそうだ。 「携帯の電源切れててさ、連絡できなかった」 「いいよ別に」 が椅子から立ち上がってふらふらと歩き出す。足取りが覚束無かったから手を貸そうかと思ったけれど、から拒否するオーラが前面に押し出されていたから、あげかけた手を下ろした。 はそのままソファへと移動し、ぼすんと音を立てて今度はそちらにうつ伏せに突っ込んだ。 「ごはん、冷凍のピザが入ってるからそれ解凍して。今日、ちょっと疲れてるから」 もごもごとくぐもった声が聞こえる。訂正、機嫌は良く無さそう、ではなく、かなり悪いようだ。 ソファに近付いて、いつもの定位置に膝をつく。ソファの下、やわらかいラグの上。 ねえ、と声をかけるがは少しだけ身体を動かしただけで返事はしなかった。随分弱っているみたいだ。 これは聞いても話さないだろうなと思い、その場に座り込む。乱れきったの頭の上に手を置くと、ぴくりと震えたのがわかった。 そのまま、ゆっくりと頭を撫でる。いつもがやってくれるみたいに。 柔らかい髪が指にからまる。まるで、離れないでって言われているみたいだと思った。 がひとつ大きな呼吸をした。 「…いま、」 「ん?」 「八つ当たりしそうだから、あっち行って」 「いいよ」 「…」 「八つ当たりしてもいーよ」 嫌なことは吐き出したほうがいい。八つ当たりでもなんでもすればいい、それでがすっきりするんなら。俺はそういうときのための存在なのだから。 そう思って、には従わずその場でまたの髪を梳き始めた。 「八つ当たりしてスッキリしたら、笑って抱きしめてくれる?」 少しだけ冗談めかして、半分本気の提案をする。 は暫く黙っていたけれども、小さくふっと息を吐いた。 「佐助、ばかでしょ…」 「そ?俺様わりと本気なんだけど」 今度はちゃんと小さく笑って、がやっとこちらを向いた。 少し目が腫れているみたいだった。俺が居ない間に泣いたんだろうか。 まだ顔にかかる邪魔な髪をどかしてやる。は少しだけ泣きそうな目でこちらを見ていた。 「…職場でね、ちょっと嫌なことがあったの」 「うん」 「はやく帰ってきて、佐助に愚痴ろうと思ってた」 「うん」 「そしたら佐助、居ないんだもん」 「ごめんね」 ぽつり、ぽつりとが話す。 本当に、充電していけばよかった。いや、残ってる課題も全部明日に回して、早く帰ってくればよかった。 腫れぼったいの瞼を指で撫でると、彼女は静かに目を閉じた。 口を開けたり閉じたりしながら、何かを言おうとしている。少しじれったかったけれども、辛抱強く待った。 「佐助が、居なくなっちゃったかと思った」 はようやく、その一言を吐き出して、こちらを見た。 目が合った瞬間にの顔がぐにゃりと歪んだ。 の目からぼろっと何かが溢れ出してきたのが見えて、あ、と思った次の瞬間にははもうソファに顔を埋めてしまっていた。 なんてこった。 酷く焦りながら、うつ伏せてまた貝のようになってしまったの身体の下に手を入れ、上半身に覆いかぶさるように抱きしめた。 彼女の身体は、すこしだけ、本当に少しだけ震えていた。 が、時折俺との別れを想像して弱気になっているのは知っていた。 彼女が、俺との生活に依存するようになってきているのも、知っていた。 けれど、こんな風にそれをの口から直接聞いたのは、初めてだった。 「メールも、はいってないし」 「うん」 「連絡も、全然、来ないし」 「ごめん」 「来たときみたいに、フラっと居なくなったんじゃないかって」 「ごめんね」 「いつか終わるってわかってたけど、でも」 佐助が居なくなったって思ったら、駄目だった。 掠れた声にそう伝えられて、胸がぎゅうと詰まった。 なんだかんだ言って、実際俺が突然居なくなっても平気なひとだと思っていた。 俺のほうが平気じゃないって、思っていた。 けれど、もうのほうも、こんなになってしまっていたのだ。 ただただ、その普段よりも幾らか小さく感じる身体を掻き抱く。 乱れた頭に何度も口付けて、ひたすら謝った。 心配かけてごめん、泣かせて悪かった。 「さすけ…居なくなっちゃ、いやだ…」 搾り出すような声で、がそう言った。 うつ伏せた身体に覆いかぶさって抱きしめながら、がこちらを向けばいいと思った。 少しでも身体を仰向けてくれれば、もっと強く抱きしめられるのに。 でも一方で、こっちを向いて欲しくないとも思った。 向き合って、抱き合ったら、俺はきっと後には戻れない。 「の傍にいるよ」 「うん…」 「ずっと、いるよ」 「ずっとは無理だよ…」 「無理じゃない。居なくなったりしないから」 意地になって「無理じゃない」と繰り返す自分に気付いて、ふと、思った。 ああ俺だって駄目なんだ。 離れたら駄目になるのはだけじゃなくて、俺もだ。 お遊び気分で始めた、いつもどおりの気楽な生活の筈だった。 ペットとご主人様というちょっとだけ規模の大きい"ごっこ遊び"。 可愛がられて可愛がって、ずっと一緒に居て、の綺麗な部分もそうでない部分も見て、幸せな夢に浸って、ここまで来てしまった。 抱き合ったらもう後には戻れないと思っていたけれど、違う。 も、佐助も、きっともうとっくに戻れなくなってしまっていたのだ。 この二人きりの、お菓子の夢みたいな生活から。 「ずっと、と一緒に居るからさ」 が小さく、「そんな夢みたいなこと言わないで」と呟く。その呟きを押し潰すように、抱きしめる腕に力を込めた。 さあ猿飛佐助、考えろ。 このご主人様との夢を永遠にするには、一体どうしたらいい? (080930) |