嫌なことというのは重なるものだ。
たとえば、仕事でうるさい上司のお小言を食らったり、道路で泥を跳ねられたり、いきなり生理がきたり。
嫌なことが重なって苛々して、苛々しているせいでまた余計な面倒ごとが舞い込んできて、さらに苛々する。悪循環だ。

心もささくれ立って、普段は全然気にもしないようなことに腹を立てたり、なかなか信号の変わらない横断歩道に苛立って無駄に遠回りをしてみたり。
そのうちに、街の浮かれ具合から今日が恋人達の一大イベントの日であることを知って、それを忘れていた自分に対してまた腹が立つやらへこむやら。

ようやく仕事を終えて家路につくころには、心身ともにボコボコに打ちのめされたような気分になっていた。


(つかれた…)


マンションの入り口のロックを解除して、中に入る。
エレベータに乗り込み、ゆるく身体にかかる重力に崩れ落ちそうになった。

気だるくヒールを鳴らして部屋の前に立ち、バッグの中から鍵を探していると、今日も中からドアが開けられた。



「おかえりー」



にこにこと顔を現したのは佐助だ。
なんだか背後に花でも散らしそうなくらい、とても爽やかな笑顔だった。
いつもならばそれを見ただけで幸せな気分になれて、帰ったぞーと言いながら頭を撫でてあげるのに、今日はそんな気分にはなれなかった。

「ただいま」

普段よりもワンオクターブ低い声でとりあえずの挨拶をして、中に入る。
ぎゅう、抱きしめることも頭をわしゃわしゃと撫でることも無く素通りしたに対し、佐助はなんだか意外そうな顔をしている。
なによ。そんな顔して。
わたしだっていつもいつも佐助を可愛がってあげられる余裕があるわけじゃないの。


ぼん、と無造作にバッグをテーブルの上に置いて、ソファに座り背凭れに頭を預ける。
「コート脱ぎなよ」
佐助が甲斐甲斐しくもコートを脱がせハンガーにかけているのを横目に、ソファにだらしなく横になる。
スカートのままそんな格好をしていたものだから、佐助がまた二、三お小言を言った。

ぱち、とテレビをつけて、クッションを抱え込む。
そろそろカバー洗わなきゃ。


『さあ、今日は2月14日、バレンタイン・デーです!街は…』


テレビのキャスターがにこやかに話す声がテレビから流れ出す。
映し出されているのは山のようなチョコレート。
佐助は台所でなにかがちゃがちゃとやっている。



「佐助ー」
「んー?なーに」
「今日バレンタインなんだけどさ」
「うん」
「チョコ無いよ」



聖なる2月14日になんという会話だろう。嘆かわしい。
自分で自分が情けなくなって、はクッションに顔を埋めた。



「いいよ。ペットにチョコなんてあげる必要ないでしょ」
「…」



佐助は、別に拗ねているでもなく返した。
本当にそんなことどうでもいい、というような口調。
自分で「チョコレートは無い」と言ったのに、なんだかちょっと悲しくなってしまった。
佐助にとってはどうでも良いことなのだ。にチョコを貰えるか貰えないか、だなんて。

いや、もしかしたら貰っているのかもしれない。
の知らない、他の女の子から。ありえない話ではない。
思い至って、ますますは気分が沈んだ。



「なんて顔してんの、



見上げると、佐助がふたつのマグカップを持ってこちらを見下ろしていた。
クッションに半分顔を埋めたまま、は佐助を睨んだ。
「いいじゃん。ほっといてよ」



「あーあ。バレンタインだっていうのに、女の子がそんな顔しないの!」



ほい、と佐助がマグカップをの額に当てた。
熱い。じわり、と陶器を通じて中に入っている液体の熱さが額に伝わる。
それと同時に、鼻腔に流れ込んでくる匂い。
(あまいにおい…)


ずる、と身体を起こしてマグを受け取る。
中を覗き込むと、そこには暖かい湯気をたてるチョコレート色。
ふわりと溶けかけたマシュマロも浮いている。
はそれを見つめ、暫し呆然としてしまった。


「疲れたときには甘いものが一番いいんだってさ」
「…」
はマシュマロ嫌いじゃなかったよね」
「…」
「冷めないうちに飲んじゃってよ」
「…佐助」
「ん?」
「これ、バレンタイン?」


佐助はにやり、と口の端を上げた。
「お返しはからのちゅーでいいよ」


とろりと甘やかなココアの中に、自分が映っていた。
表情までははっきりとは見えないが、自分は今、きっと。

ぎゅう、と胸のなかに何かがせり上がってきた。
あたたかくて、とても愛おしい気持ちだ。
嫌なこととは重なるものだ。でもそれがずっと続くなんてありえない。
雨がやがて止むように。冬がやがて過ぎるように。

ささくれ立つ心を撫でほぐす、佐助がいとしい。


佐助の腕を取って、ぐい、と引き寄せた。
わ、ちょ、こぼれる!
マグカップを支えながら佐助が抗議してきたが、そんなことには構っていられない。

佐助の首の後ろに手をいれ、ごつん、ともはや頭突きに近い勢いで額を寄せる。
「いってぇ!」
オレンジ色の髪の中に指をいれかき混ぜながら、顔がにやけるのを止められなかった。



、俺様おでこ痛い」
「佐助、逆だよ。あんたがチョコあげてどうすんの」
「なに、知らないの?バレンタインって外国では割と男から女に贈るんだよ。カードとか花とかさ」
「知らない。ここ日本だもん」
「そりゃそうだ」



額をくっつけあいながら、まるで秘密の話をしているかのようにひそひそと小声で話す。



「よく出来たペットでしょ」
「うん」
「なのにご主人様はチョコないとかいうし」
「さっきいらないって言ったくせに」
「ほんとは欲しいの」



そ、じゃあ明日買ってきてあげるよ。
えー手作りじゃないの?
我儘いわない!

佐助の大きな手が、首の後ろに回って襟足を弄ぶ。
それがくすぐったくて、首をすくめた。

「あ、じゃーさ。チョコはいいから代わりにさ、」
「なーに?」

佐助がいたずら小僧の顔になる。
瞬きの音が聞こえそうなくらいの至近距離。
首の後ろに回った佐助の手が頭を押さえて、固定してきた。




「キスしてもいい?」




あまったるいココアの香り。
それと同じくらい甘ったるい笑顔を浮かべる佐助に、も甘く微笑んだ。




「だめ」















(080214)