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あんまり気乗りがしないことに関しては、どうしても取り掛かりが遅くなってしまう。仕方の無いことだ。人間の性だもの。けれど、今日はいくらなんでも遅すぎた。まだ大丈夫、まだ大丈夫、とのんびりマニキュアなんて塗っている場合ではなかった。今更遅いけれども。 「佐助、あれ知らない?あれ!」 「黒のバッグだったらベッドの下の箱の中。パレットは朝テーブルの下に落ちてたの見たよ。携帯はソファのとこ。まだ爪乾いてないでしょ、俺持ってくるからちょっと待ってて」 今日は、得意先の主催するちょっとした記念パーティーがある。自分には関係のない話だとばっかり思っていたのに、幸か不幸か、うっかりそれに出席することになってしまったのだ。当然、気は乗らない。あくまでも仕事だから、楽しめるとも思わない。まだ時間あるし大丈夫だと思って暢気に爪の手入れをしていたのだが、そこで問題が発生した。部屋にかかっていた時計が、なんと止まってしまっていたのだ。自分の腕時計を見て、正確な時間を把握したときには心臓が冷えた。だが、今ならばまだ、ぎりぎり間に合う。 ばたばたと慌しく準備をするの横で、佐助も冷静にお手伝いをしてくれている。未だ乾ききらない爪の上の薄桃色の所為で、どうしても行動が制限されてしまう。 「あーもう、塗りなおすんじゃなかった!」 「言っても始まらないでしょ。ワンピースはハンガーにかけて寝室に置いといたからはやく着て」 文句言う暇があったら急ぐ!と、佐助はわたしを寝室に押し込む。そこには確かに、ちゃんとワンピースが準備されていた。今日着ると言っていた黒のベルベットのワンピース。まさかちゃんと出しておいてくれているとは思わなかった。なんて出来るペットなのか! 「もー、佐助お手柄!」 「でしょー。は絶対時間ぎりぎりになってから準備始めて、こんな風にばたばたすると思ってたから。まさか時計止まるとは思ってなかったけどさ」 「失礼ね」 「事実じゃない」 寝室の扉ごしの会話。マニキュアが付かないように慎重に慎重にストッキングをはく。順調。 次にワンピースに袖を通して背中のチャックを上げようとして… 「う…」 悲しいことに、背中に手が届かなかった。背中の半分くらいまではかろうじて上げられるけれども、これは、自分では全部上げることは無理だ。柔軟性のない自分の身体が憎々しい。 一瞬だけ躊躇ったあと、わたしは寝室の扉を勢い良く開けた。 「佐助!」 佐助はわたしの剣幕にちょっと気圧されたように身体を強張らせている。 「これ上げて!」 うなじにかかる髪を上げながら、佐助に背中を向けた。当然のことながら、チャックの上がりきっていない、ほとんど背中が剥き出しになってしまっているそこからは、 「普通にブラ見えちゃってますよーサン」 な状態になっている。でも今そんなことに頓着している余裕はない。一分一秒でも、時間が惜しいのだ。 「なんでもいいから、はやく!」 「りょーかい」 佐助が緩慢な動作でチャックを上げていく。ちき、ちき、という音が酷くゆっくりと聞こえる。もっと勢い良く閉めればいいのに、なんでこんなに勿体つけたように上げるのか。 「はやく!」 苛々と声を荒げると、佐助は今までの緩慢さが嘘みたいに、ジャッと大きな音をさせてチャックを引き上げた。 そして次に、 ちゅうっ と、うなじに感じる湿った感触。 時間が止まったようだった。 一瞬なんなのか理解できなかったが、すぐにそれが佐助の唇だということに気付いた。 驚いて硬直していると、佐助の舌がぬるりと肌を舐める感触。 佐助の左手が剥き出しの肩をすべり、腕を摩る。右手は、背中の曲線をなぞって腰へと下りてきた。 優しく、でも意思を持った動き。これは… 「ルール違反!」 「ぐぁっ」 はっと意識を取り戻し、振り向きざまに裏拳をお見舞いした。 遠心力の加わった拳は佐助の顔にクリーンヒット。「いってえ」と顔面を覆いながら佐助が呻く。 「ペットからご主人様へのちょっとした愛情表現だよあれは…」 佐助は小さな抗議の声を上げているが、そんなことはどうでもいい。問題はわたしがどう受け取るかであって佐助の意思なんて重要ではない。 (び、びっくりした…!) 有り得ないことに、わたしの心臓はまるでランニングをしてきた後みたいに高鳴っていた。どくどくと、心臓が耳の傍で鳴っているようだ。 なんだこれは。中学生でもあるまいし! 不意打ちだからだ。きっとそうだ。 でなければ、ペット相手にこんなに掻き乱されるなんて有り得ない。佐助に舐められた首の後ろを押さえ、走る心臓を宥めながらゆっくりと大きく呼吸をする。 人間の男と女が、あくまでペットとご主人様という健全な関係を維持するためにはいくつかのルールが必要だ。たとえチラッとでも、やましい行動が生活の中に入ることがあってはならない。いかに堅城な城の外壁であっても、蟻の巣穴ひとつで決壊することも有り得る。不安要素はすぐにその場で正す必要があるのだ。この生活を守るために! 「そこに座りなさい」 床を指差すと、佐助は大人しくその場に正座した。その姿を、腕を組んで見下ろす。 「ペットはご主人様に対してああいう真似をするものなの?」 「…しないものです。申し訳ありませんでした。もうしません」 「よろしい」 ペットの躾はその場ですぐに。それが良いペットを育てる上での必須事項だ。 佐助は鼻を押さえながら、まだちょっと痛そうに顔をしかめている。目元が心なしか泣きそうだ。 ちょっとやりすぎたかな…と、少しだけ憐みの気持ちが湧いてくるが、そこはぐっと耐える。ここで甘い顔をしてはならない。 「はっ…こんなことしてる場合じゃない!」 「まじいってえ」とまだ不満を漏らす佐助のことは意識の外に追いやって、また大急ぎで準備を始める。髪を纏めアップにして、記録的な速さで化粧をする。佐助は反省したのか黙ってソファに座っていた。 準備をしている間ずっと、佐助の視線がわたしを貫いていた。 視線が背中に突き刺さるようだ。 なに、なんなの。 そんなに見てるんじゃないわよ、という意味をこめて佐助を睨んだが、佐助は特に気にした様子もなくにこりと微笑んできた。気に食わない。 心臓は未だに、いつもよりも早いペースで血液を送り出している。 「それじゃ、行くから。ごはんは冷蔵庫に入ってるから温めて食べて」 「はいはい」 そのまま不貞腐れているのかと思いきや、わたしが玄関に向かうとやっぱり佐助は見送りについてきた。でも今日は、出掛けに頭を撫でてなんかやらない。悪いことをした子にはお仕置きが必要なのだ。じゃあね、とドアノブに手をかけると、佐助が悪びれもせずに声をかけてきた。 「、耳赤くなってるよ」 自分自身の耳を指先で示しながら、佐助はしてやったりと言いたげに微笑んでいる。 「どうしたんだろうね」と、抜け抜けと言う佐助を振り返って思い切り睨んだ。 こいつ…こいつ!わかってやっていたのか! 「生意気!馬鹿ペット!」 にやにやと笑いを浮かべるその脳天に鋭いチョップを食らわしてやった。 もう鼻息も荒く部屋を出る。ドアが閉まる直前、頭を抑えてしゃがみこむ佐助の姿が見えた。 いつもは可愛いだけのペットの小さな反乱。 外は息が白くなる程の寒さなのに、どうしてだか頬だけはまるで熱が出たようにあつい。 首のうしろ、佐助の唇が触れた部分から、燃えていくみたいな気がした。 会場についてから、上司の若杉さんに首の後ろに痣があると指摘された。なんてことだ。若杉さんも知らない振りをしてくれればいいものを!ああ佐助、佐助!あの馬鹿ペット、明日のご飯は梅干とお米だけにしてやる。 (071226) |