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縁側でのんびりと座っていると、後ろから急に抱き締められた。 相手は誰だか分かっている。いつものことだ。 だからいちいち反応もしない。 本当は心臓が馬鹿みたいに高鳴っているけれど。 そして抱き締めてきた相手もそれに気付いているのだろうけれども。 胸の前で黒い篭手が交差している。 「あー疲れた」と愚痴る声も、いつもと同じ。 黒鉄は鈍く日の光を反射していた。 「さぼってるの、佐助?」 「手厳しいねえ。まあちょっと位いいじゃない」 頭のてっぺんに乗せられた彼の顎が動く。 声が直に頭蓋に響いてくるこの感覚は嫌いではない。 後ろから、こうやって包み込まれるように抱き締められることも。 忍の装具は冷たくてあんまり気持ちよくないけれども、彼が与えてくれるのならばその冷たさすらも愛しい。 兄上に言いつけてやると言えば、「それは勘弁」と苦笑い。 のんびりとした午後。まるで平和を絵に描いたような、穏やかな時間だ。 「明日、発つの?」 「旦那達はね。俺様は一足早く、今夜に」 「武田は負けるのね」 「足掻いてみるさ」 まるで明日の天気のことを話しているかのように、軽い口調で佐助は笑った。 わかっている。わかっているよ。どうせ止めたって無駄なんだってこと。 お館様は一足先にいってしまわれた。 運命とは残酷なものだ。大事なものが、どんどんと、砂のようにこの手から零れ落ちていく。 戦うこと、失うこと。それはこの時代に生まれたものの、さだめ。 なんと深い業なのだろう。哀しすぎて涙も出ない。 「お嬢も今夜、ここを発つんだろ。用意しなくて良いのか」 「わたしは此処に残ります」 「あんまり我儘言って周りを困らせるなよ」 「此処に残るわ」 頭のてっぺんから、佐助が長くため息を吐いたのが伝わってきた。 困らせているのはわかっている。 この城に残っている女子供は、縁の深い山寺へと非難することになっていた。 直接言われずとも、其れだけで戦況は知れるというものだ。 これは負け戦。 名のある武将は明日、悉く命を散らしあの世への川を渡るのだ。 「お嬢」 「嫌です。逃げたくない」 「すぐに戻ってこれるさ」 無骨な篭手をはめた手が、優しく宥めるように髪を撫でる。 佐助はいつだって自分を安心させようと、傷つかない嘘の言葉を選んでくれる。 それはが、彼の唯一無二の主と同じ血を引いているからだ。 虎の若子と呼ばれる兄の、いもうとだから。 でも、明日、自分はそうではなくなる。 二槍を奮う兄の命は永遠に失われる。そして、目の前の、この忍の命も。 想像するだけで、胸が詰まって息が出来なくなる。 目の前が真っ暗になって、地面が崩れて奈落の底へと落ちていくような気持ちになる。 たとえ負け戦であろうとも、熱い血潮流れる武田の一番槍は、折れるまで奮い続けるだろう。 そして、彼に仕える忍が主よりも長く生きることがある筈がない。 いつか、佐助はそう言っていた。 忍のさだめ、そして自分の意地にかけて、幸村より一秒でも長く生きることは有り得ないと。 幸村が膝を付くのは、自分の骸が泥にまみれてからだ、と。 「佐助」 「…ん?」 「わたしは、逃げたい」 「…」 逃げたい、逃げたい、逃げてしまいたい。 勿論それは、この城から非難して山寺へ逃げ込みたいという意味などではない。 この現実から、明日から逃げ出してしまいたいのだ。 佐助はそれを汲み取ったのか、静かに頭を撫でて、ぎゅう、と強く抱き締めてくれた。 も、身体を小さくしてその黒い篭手にしがみついた。 ああ、ああ、これが明日、失われる。 優しく頭を撫でてくれた手が、声が、からだが、全てが、無くなってしまう。 「佐助」 喉が潰れて声がかすれた。目の奥が熱い。 「逃げよう」 搾り出した声は果たして彼に届いたのかどうか。 佐助が、困ったように笑った気配が背中から聞こえる。 そうして、「じゃあ逃げようか」といつものようにふざけた口調で佐助が言った。 「二人で逃げちまおうか。どこか、そうだな。もっと北の方に」 「北は嫌だよ。寒いもん」 「我儘なお姫様だね。じゃ南でもいいよ。山の中に小屋とか建ててさ」 「うん」 「そこで二人で暮らすんだ。畑でも耕してさ」 「うん」 「が俺の為に夕飯をつくって、」 「うん」 「そんで、二人で愛し合おう」 「…うん」 「子供は、一姫二太郎で」 「…」 「に似た女の子がいいな。黒い目と黒い髪の」 「……っく、…」 「幸せな家族になれるよ、俺達」 「…ひ、っう、」 なんて幸せな未来を言うんだろう。この、忍は。 これがきっと、影に生まれて影に死んでいく彼の夢。 どんなに望んだところで、決して手に入らない夢。 目の前がかすんで、見事な庭が歪んで消える。 頬をぼたぼたと、まるで子供のように涙が伝う。 優しくて温かい佐助の舌が、それを舐め取っていった。 しょっぱい、とどうでも良い感想を漏らしながら。 優しい優しい、兄上の忍。 「お嬢」 「…ひっく、ぅ、っ…」 「お嬢」 「う、え…」 「…」 宥めるような声が耳元に響く。 黒い篭手がいつの間にか外されて、少し硬い佐助の指がとめどなく流れる涙を拭ってくれる。 佐助が困っている、とりあえず泣き止まなきゃと思うのだけれど、どうにも止めることができない。 「今夜、ちゃんと、侍女たちと一緒に逃げるって約束してくれる?」 「…う、っ…く」 「お願い、俺の為に約束して」 と幸せな家庭を築く、っていう一番目の願いを叶えるのは無理だから、二番目の願いを叶えて。 に生き延びて欲しいという俺の願いを、どうか叶えて。 「…っ、ず、ずるい」 「そう?」 「そんなの、断れない、じゃない」 「うん、そうだね」 いつものように、飄々と佐助は笑う。 俺の願い事、踏み躙ったりしないでね、と。 だったら、わたしの願い事も叶えてと言うと、佐助は勿体つけたように「内容によるなあ」と返した。 「佐助の奥さんになるっていう一番目の願いは諦めるから、二番目の願いを叶えて。佐助をわたしに頂戴」 自分の腹に巻きつく腕を剥がして、身体を捻って佐助のほうを向く。 呆けたような顔をしている佐助の襟元を掴んで顔を引き寄せた。 一回目の口付けは、涙の味がした。 そうして、背中に回った腕は力強くて優しくて、昼間の太陽から逃げるように雪崩れ込んだ部屋は、いつしか消え行く命を燃やす二人のにおいでいっぱいになった。 (071207) |