誰か、俺のためにあれをもいで来てくれ。




彼女は眠りにつく時間がとても遅い。なんでも、前に居た世界では日の入りに眠って日の出と共に起きるという生活は考えられないものであったらしく、お陰で深夜城中の人間が全て寝静まって動いているのは虫と忍ばかりという刻まで布団の中でごろごろと寝返りを打っていたりするのだ。
始めのうちは、気が張っている所為だと思っていた。
だが、佐助がを拾ってきてからもう半年。相変わらずの睡眠時間は変わらぬままだ。
忍でもなんでもない、普通の人間がそんなに眠らなくて大丈夫なのかと思うが、どんなに眠りにつくのが遅くとも朝は皆と一緒にちゃんと起きる。
元々睡眠時間が短くても平気な部類なんです、とへらりと笑った顔には、しっかりと隈が出来ていた。

だがある日、どうしてこんなにも彼女が眠らないのかを知った。
蝋燭の消えた闇の中で、父と母の名を呼んで涙を流さず泣く彼女を見た。
其処で理解した。
ああ、この娘は心の底から故郷が恋しいのだと。
理解した瞬間、己の胸の中で悲鳴が上がった。

彼女は此処の住人ではない、彼女には帰るべき場所があるのだという事実をまざまざと突きつけられた。
そしてその帰るべき場所とは、此処とは一から十まで全てが異なる、完全なる異世界。
なんの前兆も無しに突然やってきただ。おそらく、帰りだって突然だろう。
夜、寝ている最中かもしれない。自分が戦に出ている最中かもしれない。ちょっと目を離した隙に一瞬で消えてしまうかもしれない。
その予感は、血塗れた刀よりもゆっくりと確実に佐助の胸を裂いた。

ずっと、持て余してきた。
自分の中でゆっくりと確実に育っていったこの感情を。
唯一無二の主や同郷のくのいちへの感情とは全く異なるこの感情。
これが平穏や純粋さへの羨望なのかそれとももっと違うものであるのか。
だが、故郷を思って涙を流す彼女を、を見て直感的に悟った。
随分長いこと忘れていた。いや、これまで一度も抱いたことなどなかったのかもしれない。

それは恋慕だった。

気付いた瞬間に歓喜と焦燥と後悔が襲ってきた。
ただがこちらに視線を寄越した、それだけで心臓が大きく脈打つ。
その視線が外れてどこか他の場所へ向けられると、酷く渇いたような気分になる。
どうして気付いてしまったのか、気付かなければ、知らない振りをしていればこんな気分を味わわずに済んだのに、と過去の自分を呪った。
それでも、の姿を見つければ自然と足が向いてしまう。
これは毒だ。忍である自分をも容赦なく蝕んでいく。


ちゃん、いい加減寝た方がいいんじゃない?風邪ひくよ」


冷たい風の吹く縁側に腰を下ろし、ぼうっと夢を見ているような目をしている彼女に話しかける。
突然現れた俺に驚いたように目を丸くして、瞬きを数回。
彼女は、眠くないんです、と馬鹿でも分かりそうな嘘をついた。


「あんまり眠らなくても平気なんです。…って、前も言いましたね」
「ふーん。そうだったっけ」


月は丸い。あと数日で満ちる。
夜の風が切るように冷たい。
この寒さは、薄い寝間着一枚の彼女には酷なのだろう。
両腕を抱きかかえるように擦って、息をついていた。


「うう、やっぱりもう夜は寒いですね」
「そりゃあそうだよ。だから早く部屋に戻りな。火鉢を持ってきてあげる」
「もうちょっと」


ああでも寒いな、といっては膝を抱きかかえるようにうずくまった。
下を向いた拍子に、首筋にかかる黒くて細い糸のような髪がうなじをすべり落ちる。
するり、するり、と。
その首に触れたくなった。
どくどくと脈打つ血潮を確かめたい。
髪に指を絡ませて顎を掬い上げてその唇に触れたい。
すべらかな肌に手を這わせて涙を流す目元に口付けたい。
ぴくり、とまるで反射のように自分の指を動いたのを感じる。
黒鉄の篭手が硬質な音を立てた。
静かな夜に、それは存外に大きく響いた。


「どうして、そんなに寝たがらないの」
「ううんどうしてでしょうね」
ちゃんは贅沢だな。俺様なんて寝たくたって寝れないのにさ」
「それ言われちゃうと返す言葉もないなあ」


眉尻を下げて、が笑う。
月の光の所為かその横顔はいつもよりもずっと蒼白く見えた。
黒い睫が濃い影を落とす。


「…夢を、見るんです。それを見ると醒めたくなくなっちゃうから。眠さの限界まで起きてればあんまり夢とか見ないで済むでしょう」


震える吐息が、寒さで蒼白くなった唇から漏れた。
胸の内がざわめく。
そんな目をするなと叫んでしまいたい。
望郷の念を滲ませた目を。


「へえ。どんな夢?」
「それは秘密です」
「…ねえ、ちゃん」


縁側で膝を抱えて座りながら、彼女は視線だけをこちらに寄越した。

夢とは、おそらくは彼女の故郷の夢だ。
目が覚めたときに、自らの居る世界を、現実を再確認することが怖い。
きっと、そういうことなのだろう。

彼女が生まれたところ、今まで生きてきたところ。途方もなく平和で安穏とした世界。
忍びである自分にはこれまでもこの先もきっとずっと縁の無い世界だ。
を見下ろしながら、胸の内で嵐のような感情が吹き荒れる。


「元居たところに、帰りたい?」


例えば己を蝕むこの想いを全て曝け出したら、はどうするだろう。
ずっと此処に居て欲しい、自分の傍に居て欲しい、あんたが愛しくて愛しくて狂ってしまいそうだ、と。
あんたしか必要じゃない、欲しい、頼むから俺のものになってくれ、と懇願してみようか。
優しいのことだ。差し出した手を無下に振り払うことはしない。
彼女は断れないだろうという確信があった。
この世界にやってきた彼女を拾って、面倒を見てきたのは他でもない自分だ。
は佐助の為に自分が出来ることを何でもやろうとしたし(でもただの非力な女であるに頼めることなんて何一つなかったけど)、まるで実の家族のように懐いている。
ただしのそれは恩義と友愛であって、決して自分が抱いているものと同じではない。
それでも、は断りはしないだろう。

そうして、手に入れる時のことを思うと身体中を歓喜が支配する。
例え偽りの関係であったとしてもがこの世界に、自分の傍に居るという未来はなんて幸せなものなのかと思う。
卑怯にもが感じている自分への恩義を利用して留め置いたとしても、いずれは本当にを振り向かせる手練も手管も自分にはある。自信もあった。
は、忍びとして主に仕え、己を殺し続けた自らの生に落ちた一滴の甘露だ。
彼女が待っていてくれるというのならば、どんな死地からも戻ってみせる。どんな戦だとて負けはしない。

それは渇望だ。
が欲しい。
が自分の腕の中で笑ってくれる未来が、欲しい。


だけど、ああ、だけど。


の目が自分を見つめる。
無垢で純粋で戦を知らぬ幼子のような目が、涙を流さず泣いている。
故郷を想い、父や母を想い、優しい未来を想って泣いている。

がこの手に落ちてくればいいと思う。それは己のこの血塗れた一生の内でもっとも幸せな瞬間になるだろう。
だが、彼女が自らの世界に帰った後の幸せと、同じだけのものを自分は与えてやれるだろうか。
平和で平穏で戦のない夢のような世界に戻ったら、は血の臭いのしない男の手をとって、その男の子を生んで未来に繋げる。
そうしてこの世の汚いところも哀しいところも知らずに、温かい布団の中で子供達に見守られながら死ぬ。

でも、俺は?
両手を血に濡らして存在さえも公にされない俺は?
が隣にいれば俺は幸せだ。
だが、実際にいつ何時死んでもおかしくはないこの戦国乱世で、彼女を幸せにしてやることはできるだろうか。
答えなんて、火を見るより明らかだ。


の唇がゆっくりと開く。答えを紡ぐために。
その唇を塞いでやりたい。
慕っている、好きだ、髪の一本血の一滴まであんたを全て俺にくれと叫びたい。
後生大事にするから、離さないから、元の世界のこともその世界での幸せも全て忘れて俺の傍にいてくれ。
そうでなければ、この胸を引き裂いて、あんたを想うこの心を抜き取ってくれ。
魂さえも蝕むこの毒を吸い出してくれ。


「帰りたい、です」


高い木の上にある果実を欲しがって地団駄を踏む餓鬼のようだ。
誰か、誰か、俺のためにあれをもいで来てくれ、と。





所詮夢だと分かっていても
でも、それでも、どうしても、欲しい。




(071129)