がつん、と頬に鈍い衝撃が伝わる。
少し遅れて、ずきんずきんという重い痛みが左頬から顔全体に伝わってきた。

政宗は呆然とした。
目の前の彼女も呆然としていた。

頬を押さえながら、何が起こったんだと立ち尽くす政宗の前で、同じくらい動揺した様子の女が口元を押さえて「しまった」という表情を浮かべていた。







必殺乙女右の拳






女に殴られた。ちょっと小突くとか、そんな可愛い話ではない。
ぎっちり握られた拳で、横から思い切り殴られた。強烈な一撃だった。

殴ってきた相手の名前は。ガキの頃からの付き合いだが、恋人としての付き合いは2週間。
言っておくが、告白してきたのはあっちの方だ。俺じゃない。
とりあえず恋人という立場に納まったわけだが、そもそも鼻を垂らしてたガキの頃から良いところも悪いところも全部見てきた相手だ。今更態度なんて変えられるわけもなく、付き合って2週間も経つというのに恋人らしいことなど何一つしなかった。
変わったことといえば周囲からの冷やかしの声が煩くなったことくらいで、こうなるともう付き合った意味があるのかすら疑問だ。

そんな状況の中、どんなきっかけだったか忘れてしまったが、とにかく付き合い出してから初めて恋人らしい空気になった。
自然な流れだった。
の頬に手をかけて、顔を寄せたところで、


「い、いや!」


という意味の分からない一言と共に、不意打ちの右フックを食らった。
俺でなければ一撃でノックアウトされていたところだ。

余りの事態に呆然として、お互いに言葉も無く暫し見詰め合っていたのだが、結局顔を赤くして背を向けたのはの方だった。走り去る間際一瞬見えた横顔が泣きそうに歪んでいて、泣きたいのは俺の方だと心の底から思った。



「あれ、政宗どうしたんだい」

「うっわー、なにその痣。誰かと喧嘩でもしたの?」



苛々と昨日のことを思い出しながら窓の外を見ていると、嫌な奴らに声をかけられてしまった。前田と猿飛だ。猿飛が「それ触ってもいい?」とにやにや笑いながら伸ばしてきた手を振り払う。



「はは、もしかしてちゃんに迫って殴られたのかい?」

「うるせえよ」

「……」



前田の言葉を否定せずにそっぽを向く。猿飛が「まじ?」と若干顔を引き攣らせた。あっちへ行け、と二人に向かって手だけでこたえると、前田がまた余計な説教を垂れてきた。



ちゃんって、政宗が初めての恋人なんだろ?あんまり急かしちゃ駄目だぜ」

「だから放っておけよ」

「女の子の気持ちも考えないと」



ちゃんに嫌われちゃうぜ、と前田は至極真面目な顔で言った。
嫌われる?この状況で、嫌うのは俺の方だろ。大体、あいつの方から思いつめた顔で告白してきたんだ。それなのに、嫌がられて殴られるなんてそんな話聞いたことねえよ。

「女の子は繊細だからね」

知った風な口をきく前田と楽しそうに笑っている猿飛に腹が立って、耳障りな音を立てながら席を立った。











俺の家の前でしゃがみこんでいるを見つけたのは、薬局で湿布を買ってきた帰りのことだ。
は俺に気が付くと、「あ…」と小さく声を上げて立ち上がった。
また暫くお互いに無言で見つめ合う。



「…何しに来たんだ」

「えっと、あの…昨日のことを」



はうつむいて、き、昨日のこと…ともごもご喋っている。通りかかった2,3人の買い物袋を提げた集団がこちらをちらちらと見ていた。
このままじゃいい見世物になる、そう思い「あがれよ」と顎で示して家に入った。遅れて、も小さく挨拶をして入ってくる。家の人間はまだ誰も帰っていないようだ。

部屋に上がって鞄をベッドの上に投げ捨て、ついで、スプリングを軋ませてベッドに腰掛けた。そろそろと付いてきたは、足を組んで座る俺の正面に正座した。



「…で?」



声をかけると、がびくっとあからさまに怯えた様子を見せる。今までに何度もはこの部屋に来ているが、こんな険悪な状況になったことは今まで一度も無かった。
が真剣に怯えている姿を見て、舌打ちをしたい気持ちになる。俺が悪いみたいじゃねえか。



「殴ってごめんなさい」

「…」

「嫌ってわけじゃなかったの。ただその、ちょっとびっくりしちゃって」

「お前は驚く度に右フックを食らわせるのか」

「だ、だって!」



「政宗がキスしようとするんだもん!」と、顔を真っ赤に染めながらは声を張り上げた。
その言葉に唖然とする。いや、だってお前…



「しようとするだろ!普通はよ!」

「今まではしなかったじゃん!」

「当たり前だ!お前何のために付き合ったと思っていやがる!」

「政宗のえっち、変態!」

「な…っ」



なんなんだ、こいつ。がくりと力が抜けた。
がしがしと頭を掻いて、天井を見上げる。
つまりは、わざわざ恋人にしてくれと告白してきた癖に、には幼馴染よりも先に進もうという意思が無かったということだ。そもそも、恋人になれば身体の付き合いもあるのだという考えがあったのかどうかも怪しい。
政宗は盛大に溜息をついた。

が告白してきたとき、政宗は大いに迷った。
今、この居心地の良い幼馴染という関係を壊してしまってもいいものかと。
だがにとっては、恋人とはただの幼馴染の延長であったらしい。
これを嘆かずにいられるだろうか。



「わかってるよ、ちゃんと…」



小さな声で、が言った。



「でも、なんていうかね、…こ、怖いっていうか」

「何が怖いってんだ」

「いろいろ…。嫌じゃないんだよ、でも、ごめん」



そう言って、が俯く。
これが、前田の言っていた「女子は繊細」ということなのだろうか。キスひとつくらいでこんなに騒ぎ立てることが、女子の繊細さなのだろうか。残念ながら政宗には理解できない。

「許してくれる…?」

上目遣いで、しかも少し泣きそうな声でが言った。もう一度、大きな溜息をつく。
「…わかった」と言うと、の表情がようやく安心したように緩められた。そこに畳み掛けるように言葉を重ねる。



「許してもいいから、抱き締めさせろ」



面食らって、え、え、とうろたえるにイラッとして、ベッドから降りての、夏服から剥き出しになっている腕を掴んで引き寄せた。突然のことに抵抗もできず、の身体はすんなり政宗の腕の中に納まった。
小さい。そういえば、を抱き締めたのは初めてだった。2週間も一緒に居て抱き締めたこともなかったとは、最早奇跡だ。
ようやく、大人しくしていたが状況を把握して僅かに抵抗の気配を見せてきた。それを押さえつけるように強く抱き締める。ふわ、との髪から甘い香りがした。



「だから、こういうの慣れないんだってば…!」

「慣れろ」

「そんなこといったって」

「お前のペースに合わせてたらあっという間に爺だ。俺が慣らす」

「ばか…!」



それきり、観念したのかは腕の中で大人しくなった。背中に回ったあたたかい手の感触に口が緩む。
そこで調子に乗ったのが悪かった。
少し身体を離して、の顎を掴んで上を向かせた時、頬で渇いた音が鳴った。











「増えてるし」


右フックを食らった時に出来た左頬の痣と、昨日の平手打ちで赤くなった右頬の惨状を見て、猿飛が眉を下げて笑った。「同情するよ」と言った顔がどう見ても馬鹿にしていて、後で覚えていやがれと悪態をつく。こいつ、他人の不幸を楽しんでやがる。じんじんと両の頬が痛むし、余計な奴には絡まれるし、最悪だ。



「ほんと、何もさせて貰えない内に別れないように気をつけな」

「Shit!黙れよ」

「せっかく念願叶って付き合えたんだからさ」

「俺は別に付き合いたかったわけじゃねえ」

「へえ?」



猿飛が目を細めてこちらを見る。その目が気に入らなくて、思い切り睨み返した。
おまけに、「俺様てっきり、竜の旦那がのこと好きでしょうがないんだって思ってた」なんて戯言を垂れるものだから、本当に殴ってやろうかとすら思った。



「ふざけんな。惚れてんのは俺の方じゃねえ。あいつだ」

「そ?案外周囲の冷静な目の方が正しかったりするもんだぜ」

「あァ?」

「ほら、噂をすれば。可愛い恋人が来てるよ」



猿飛の言葉に教室の入り口を見ると、がすこしだけはにかみながら廊下からこちらを覗いていた。目が合うと、物凄く嬉しそうに手を振ってくる。
ほら見ろ、あいつが俺のほうに惚れてんだよ。
猿飛を横目で見ながら、席を立つ。



「あんた、今の自分の顔、鏡で良く見た方がいいぜ」



煩い猿飛の言葉は無視して、にこにこと俺を待つの方に向かって歩く。
両頬の鈍い痛みは、その阿呆みたいなの笑顔を前にいつのまにか霧散してしまっていた。












(日記絵を見て、ネタを提供してくださった方に感謝) (080622)