とても幸せな記憶がある。それは遠い過去のことのようで、つい昨日のことのようでもあった。暖かい日差し、笑い声、いつもは厳しく吊り上がっているその目尻を下げて、あの方の目がこちらを見る。
武将だというのに畑を耕す姿すらもを魅了して止まず、額を拭った際にあの方の顔についた泥がうらやましいと思える程に囚われていた。

あの方との将来を用意してくださったのはの父であり、それを奪ったのもまたの父であった。
きっかけは何だったか…そう、領土のことについてであったように思う。その時のは、あの方との幸せの絶頂にあり、父が何に思い悩んでいたのか気付こうともしなかった。父はが思うよりも欲深い人間であることにも、ついぞ気付くことが出来なかった。
は、と気付いて現実に目を開けば、政宗様の御意向により土地(なんてくだらない!)を削られてしまったことを恨んだ父が謀反を起こした後だった。祝福の中で取り成される筈だったの婚姻も無くなり、全てを失い何もかもに追われ、逃げて逃げて、





(暗転)




ぎい、と重い扉を開けると、中に囚われているひとりの男の姿が見えた。
酷い折檻でも受けたのか、陣羽織は切り裂かれ赤黒い染みがあちこちに散っている。
かつて、きちりと後ろに流されていた髪は薄汚れてべたりと垂れ下がっている。
後ろ手に縛られたそのひとが、ゆっくりと顔を上げた。
その目の、恐ろしさときたら。まるで獣のようであった。
以前のであれば、その目を見ただけで気を失ってしまったであろう。そう、以前のであれば。

ゆっくりと交じり合う視線。
獣の荒々しさを秘めた目が驚きに見開かれるのを、は少しおかしく思った。


「お前、は…」


搾り出すような掠れた声に、思わず目を瞑る。
この声を聞くのは、何時以来だろうか。あの幸せな記憶のなかで福音のようにの耳に囁かれていた声、それが久方振りに鼓膜を震わす心地良い感覚がじんわりと身体に染み渡った。
なぜ、と空気のような息を漏らすそのひとに向かって、は微笑む。


「お久し振りでございますね、小十郎様」
「なぜ、ここに」


呆然と見開かれた目がを映している。それだけで、耐え難い程の何かが心へと湧き上がってくるのを感じた。
父を殺され一族を滅ぼされ国を追われて、それでも未だ己がこの男を愛しているのだという事実が改めての内を満たす。


「小十郎様は、これを取り返しに来たのでしょう?」
「それ、は…!」


手に持った、ずしりと思い鉄を差し出す。あまりの重さに、腕が震えた。
出来うる限り静かにそれを床に下ろす。放り投げてしまおうかとも思ったが、これは小十郎様の大切な方の、大切なものだ。無碍にも出来なかった。


「竜の六爪…これを、取り返しにいらしたのでしょう」


小十郎様はわたしの顔とその刀とを見比べて、眉を寄せた。
「申し訳ございませんが、これはお返しするわけには参りません。久秀様からお借りしたものですから…」
そう言うと、小十郎様の眉に谷のように皺が寄る。隠れていた眼の奥の獣が、再び突き刺すような威圧を伴っての前へ姿を現した。


「なぜ、松永の元にお前が…」
「…久秀様に、助けて頂いたのです」
「…!」


小十郎様の目は、あの頃のように真っ直ぐにこちらを射抜く。
たとえどんな視線であっても、このお方が見ているというだけで心が満たされてゆくのを感じた。


「小十郎様…わたしは、全てを失いました。家族、家臣、国…逃亡の最中、おなごとして決して失いたくなかったものも」
「…」


言葉の意味を汲んだ小十郎様が一瞬目を見開き、獣がまた消えた。僅かに憐憫を湛えた目。
するすると衣擦れの音を立てながら、小十郎様に近付く。
汗の匂い。血の匂い。男の匂い。
それら全てが小十郎様のものだというだけで、梅や梔子、白檀、その他の何よりもこれが最も尊く、馨しいように感じられるのだから不思議だ。


「奪われ疲れ果てたわたしに、久秀様がこう仰ったのです…」
「……」
「今度はわたしが、奪う側に立てば良い、と」


泥に塗れ名誉も誇りも失い、屍になりかけた時に差し出されたあの手は、本当は地獄の鬼の手だったのかもしれない。だが、それに構っている余裕は無かった。
まるで水に溺れる者が藁をも掴む勢いで、はその手に縋ったのだった。


「久秀様には感謝しております。わたしはもう、何も奪われない…」


小十郎様が唇を噛んだ。うっすらと滲む血を見て、ああ勿体無いと心から思う。


「政宗様のお加減は如何ですか?爆風に飲まれたと…」
「……ご無事だ」
「そう…残念」
「!」


目は口ほどにものを言うとは良く言ったものだ。小十郎様は、信じられないという目をわたしに向けた。
心の中でひっそりと思う。
小十郎様、わたしは伊達に全てを奪われたのですよ。たとえそれが父の犯した過ち故だとしても、家も家族も国も、そうして小十郎様も。

後ろ手に縛られた小十郎様の前に座り、そうっとその頬に手を伸ばす。
指先に触れる傷痕。泥に濡れても猶精悍なお顔。
その頭をゆっくりと抱きしめて、は倒れそうなほどの幸福に酔った。


「小十郎様、小十郎様…」
「…哀れな…」
「哀れなのは小十郎様のほう。…もう、伊達には帰れません」


久秀様は、に小十郎様をくれると言った。
だからもう、このお方はのものだ。そう思うと胸が熱く、息が苦しくなる。
ああ愛おしい小十郎様が、わたしの手の内に。


「小十郎様、お慕いしております。あの頃からずっと、ずっと…」


包み込んだ小十郎様のお顔が、少しだけ悲しそうに歪んだ。
「小十郎様がいれば、は他には何も要らないのです」
「小十郎様だけで良いのです」
心からの想いを伝えても、小十郎様の顔は悲しく歪むばかり。
本当は、あの頃のような笑顔が見たいのだけれど、欲張ってはいけない。


「小十郎様、名を呼んでくださいまし…あの時のように、、と」


固く引き結ばれた口からは、震える吐息しか漏れてこない。
抱きしめた小十郎様の髪に頬を寄せながら目を瞑れば、木漏れ日とあたたかな笑い声と、眉尻を下げて「」と名を呼ぶ小十郎様の姿が脳裏に浮かんだ。






花散里







「…必ず、お前をこの地獄から救い上げてやる」

小十郎様が眉にぎゅうと皺を寄せながらそう言った。
嫌だわ小十郎様、あの時あの地獄から救ってくださらなかったあなた様が今更何を!











ちまこさんに捧ぐ!(笑) カバーした「メルト」を聴きつつ打ちました。
(100123)