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「佐助〜〜」 いつものただいまの言葉も無しに、乱暴に開かれた音が閉まる音がする。玄関から聞こえてきた声と、それからパンプスを脱ぎ捨てる音に、この家の主人の帰宅を知って佐助はリビングから顔を覗かせた。 普段はきちりと揃えられるはずのパンプスは無造作に散らばり、佐助のシューズもひっくり返っていた。 どうやら本日の御主人さまはご機嫌斜めらしい。 「おかえり、」 ぼん、と投げられたバッグを受け取りソファに置く。アプリコットブラウンの髪は風に流されるままに乱れていて、眉間の皺も手伝い、普段では考えられないほど酷い身嗜みだ。 おかえり、の言葉に返事もせずに、はまっすぐに冷蔵庫へ向かう。普段は絶対にしないのに、水の入った2Lペットボトルから直接口をつけて、勢いよく飲み込んでいる。 これは思った以上に、悪そうだ。 触らぬ神にたたりなし。普段なら、おなかすいた、ごはん、と甘えてみせるけれどそれは得策ではないと判断する。こういう状況と空気を読むことこそ、この共同生活を円満にするために必要不可欠なスキルだ。 今日は、カップラーメンかなと思いながら、読みかけの雑誌の手にソファに戻った。 ジャケットを脱いだはそれをダイニングの椅子にかけて、ふーと溜息をついている。 さて、どうしたのと聞くべきか、聞かざるべきか…。横目で見ながら思案していると、のほうからこっちへ寄ってきた。どうやら今日は聞いてほしい気分らしい。 が座れるように、ソファを降りようとしたが止められた。代わりに、いつも佐助が座っているホットカーペットの上に座りこんだが、佐助の膝に頭を預けてきた。 めずらしい。 いつもとは逆の立場に困惑したのも一瞬のこと、膝と太腿から伝わるの温かさがじんわりと染みてきて、佐助は自然と彼女の髪を撫でた。 「佐助、きいてよ〜…」 「うん、なーに?」 スウェットの膝に額をつけたまま、がもごもごと話し出す。今日職場でさ、からつらつらと始まるの愚痴に付き合うのはいつものことだ。うん、うんと相槌を打ちながらやわらかい髪を撫でる。風に煽られあちこちに飛んでいた髪の流れは、いつの間にかきれいにおさまっていた。 ず、と鼻をすする音がかすかに聞こえる。泣いているのかと一瞬体を強張らせたがそうではないらしい。 むしろ、怒っているのかもしれない。 いつもは、の膝に頭を預けながら聞いているのだけど、今夜の立場は反対だ。 ぶうぶうと文句を言いながら膝にくっついた額のあたたかさ。 そっと添えられた小さな手がくすぐったい。 ふわふわの髪を撫でながら、ふつふつと沸き上がってくるのは庇護欲だろう。身をかがめて、そのアプリコットブラウンに口付けると、じと目をしたがようやく顔をあげた。まずい、怒られるかもしれない。 「それで?」 「ん?」 「で、どうしたの?」 誤魔化すように続きを促したけれど、はもう愚痴を吐きだすことに満足したようで「もういい」と言ってまた顔を伏せた。 の声が止むと、部屋の音は空調と、換気扇、時計の秒針、それからと佐助の呼吸だけになる。 が一度だけ大きく息を吸って、長い溜息をついた。 膝にくっついていた額が離れて、今度は頬がくっつく。の横顔は、まだ少し仏頂面だった。かり、と整えられた爪がスウェットを引っ掻く。ピンクベージュの爪は磨かれて光っていた。 ふくれた頬がかわいくて、突っつく。は怒らなかった。 つむじを押す。怒らない。耳たぶを引っ張る。怒らない。 調子に乗った佐助は、今度は両手での頭を包み込んで、もう一度、今度はこめかみに口付けた。 ここらで一発飛んでくるのでは、と身構えたけどそれでもは怒らない。 「、今日は甘えただな」 思わず漏れた感想に、はまたじろりと睨んできた。 シャツを着たその両脇に手を差し込んで、の身を少しだけ起こす。なによ、とようやく怒ったような声が聞こえてきたけど無視をした。本当にいやなら、はすぐ手が出る。 そのままぎゅう、と抱きしめた。は怒らない。今日は本当に、甘えたい気分だったらしい。 「おつかれ」 「…うん」 不機嫌混じりの声は、それでも先ほどよりは上向きの調子だ。 の首元で思い切り息を吸い込むと、のにおいがした。 少しして、佐助に比べれば随分華奢な腕が背中に回る。じんわりと広がる温かさに、思わず息をついた。 の手が、背中をぽんぽんとあやす様に一定のリズムで軟らかく動く。 自分が甘やかしてあげている筈なのに、これではいつもと同じだと気付いて笑いが漏れた。 抱きしめたままの体を引き上げて、ソファに寝そべる。特に抵抗もしないまま引き上げられたはそのまま俺の上でおとなしくしていた。 「元気出た?」 「まあまあ…」 呼吸に合わせて、の背中がゆっくりと上下する。 また会話が途切れて、部屋の音が消えた。佐助を下にして、しがみついているの顔は見えない。首元に当たる息がくすぐったい。 こうやって、が弱いところを包み隠さず佐助に見せるとき、どうしようもなく満たされる自分に気付かされる。外では気丈に振る舞う御主人さまは、実はそれなりに傷付きやすくて脆い女の子だ。 警戒もせずに曝け出される弱さが、自分への信頼と依存を如実に表している。 女に依存されることほど面倒なことはないって、そう思っていたのが遠い過去のことのようだった。 もっともっと依存すればいい。 が吐く毒も愚痴も全部掬って、甘やかす。そうしたらこのかわいい御主人さまはもっともっと俺に夢中になるだろう。どんどん、俺のものになっていってくれるはずだ。 そう考えると、自然に口の端が上がった。きっと俺はいま、とても意地の悪い顔をしているんだろう。 重さが心地よくて温かい。あと、当たる胸がやわらかくて気持ちいい。 そんなことを考えていると、佐助の善からぬ思考を読みとったのか、の手が額をたたいてきた。 「いで」 「は〜…。さ、起きる。手離して」 満足したらしいが、体を起こそうとソファに手をついた。 それを阻むようにぎゅうと抱きしめると、抗議の声が上がる。 「ー」 「なによもう!ほら、ごはん作るから!」 「ん…」 埋めた首筋ならのかおり。抱きしめる体はやわらかくて、小さい。 全部俺のものならいいのに。 「ね、。おれまだ聞いてないよ」 「なに?」 「おかえり」 額にかかる前髪を避けながら、再度言った言葉に、は少しだけ目を見開いたあとに、ようやく笑顔を見せてくれた。 「ただいま、佐助」 ほら、今日もかわいい御主人さまは、全部俺の思い通り。
おかえり御主人さま (2012.01.22) |