ひとりの殺し屋の映画があった。
その殺し屋は大きな鉢植えと年端もいかない幼い少女を連れて未来の無い道を歩く。
その殺し屋の血と鉄と硝煙に塗れた糞のような人生のなかで、鉢植えと少女は一粒の真珠になった。
はその映画が好きだった。
映画の少女と同じくらいの歳のときに初めて見て、はその少女と自分は酷く似た境遇にあると感じていた。
一番欲しいと思う人間に、歳の差も気にせずこのように想いを伝えられたら。
伝えた先に、彼が応えてくれる未来を思い浮かべて、すぐにそれを打ち消す。
物事は映画のようにうまくはいかないものだ。


「…おい、ここで何をやってる」

あと一時間で今日が終わるという時間帯。歓楽街にほど近いゲームセンターの入り口で酷く低い声が掛かった。
耳に馴染んだその声は、の隣のマンションに住んでいるとある男の人のものだ。
えーなにー、と一緒に遊んでいた数人の男女が迷惑そうにその男の人を睨みつける。が、彼の顔のほうがもっとずっと恐ろしくて、気圧されたまだ学生に過ぎない子供達は息を飲んで身体を退いた。

「餓鬼がこんな時間まで何遊んでやがる」

ドスの利いた声で説教をかまされ、震え上がった数人が「ふざけんなおっさん」「うぜー」などという捨て台詞を残してその場を去る。そして残った数人も「萎えた、行こ」と眉を顰めて散って行った。
どの群れにも加わらなかったわたしは当然のように置いて行かれる。所詮、このコミュニティの結束力なんてその程度のものだった。

「…。今日は塾だと聞いたが」
「誰に?」
「お前の母親だ」
「塾には行ったよ。その帰りに友達と遊んでた」
「こんな時間までか?」

まるで保護者のような尋問をするこの男の人の名前は、片倉小十郎と言う。
の隣のマンションの住人で、三十路近い歳のいわゆるエリートサラリーマンというやつだ(実際のエリートサラリーマンの定義は知らない)
会社から帰る途中、車の中からを見つけてわざわざ停車し声をかけてきてくれたのだと言う。
溜息をついた小十郎さんは後ろに流された前髪に指を通しながら呆れたような表情をして口を開きかけた。
だが、またマシンガンの弾のように飛び出すかと思われたお得意のお説教を腹へ下して、彼は一言「乗れ。送って行こう」とだけ口にした。

会社帰りのスーツの背中を見ながら、黙ってその後についていく。
よく手入れのされたリッチブラックのセダン。その助手席の扉が、まるで有名女優を相手にしているかのように彼の手によって開かれた。
黙ったままそこに乗り込むと、かすかに甘い煙草の香りがする。
運転席に小十郎さんが乗り込んだことで、車体が軽く沈む。

ばたん。

空間が閉じられた音と無機質なエンジン音が、この場所が密室になったことを知らせる。
ふと煙草の臭いに気づいたのだろうか。小十郎さんが薄く窓を開けようとしたのを「寒いから」と言って止めた。
このにおいをもう少しだけ嗅いでいたかった。
小十郎さんが煙草を吸っていたことを、は今初めて知った。彼のことをは何も知らない。

「シートベルトを」

短くそういわれ、まるで拘束具のようだと思いながら黒いシートベルトを身体に巻きつける。
これでは警察に捉えられた犯罪者のように、この車内で何も出来なくなった。

かくしてわたしと小十郎さんを乗せた密室は静かなエンジン音を響かせながら夜の街を走る。
道端には、仕事を忘れるため酒に溺れた労働者。肌を露出し媚びた笑みを浮かべる女。足早に家路へ急ぐひと。家の無いひと。
様々な人間が溢れかえっている。
彼らから見たとき、この密室の中の二人はどのように映るのだろうか。
一分の隙もなく戦闘服のようにスーツを着込んだ精悍な大人の男性と、黒いセーラー服に身を包んだの姿。

ぎゅう、と握った手の中でプリーツスカートが皺を作る。
横を盗み見ると、真っ直ぐに前を見た小十郎さんの顔にネオンが反射していた。視線に気づいたのかこちらを見る素振りを見せたので、慌てて前に向き直る。

「…聞かないの?」
「…?何をだ」
「さっきの人たちは、とか。どうして夜遊びしてたのかとか」

サイドミラーに映る自分の顔は随分と憂鬱そうだ。知らない内に唇が尖っていたことに気が付いた。
小十郎さんは特に何も言わなかった。
寡黙な人なわけじゃない。この沈黙は、恐らく「根掘り葉掘り聞かないから言わなくていい」という彼なりの意思表示だろう。

は小十郎さんのこういうところが嫌いだった。
そしてどうしようもなく好きでもあった。

幼かったの世界に飛び込んできた、学校のせんせい、塾のせんせい、両親、親戚。そういったものではない初めての大人の男。それが彼だ。
骨と皮と申し訳程度の肉しかついていない鶏がらのような子供だったは、目の前に現れた精悍で落ち着いた大きな他人というものに夢中になった。それが恋に代わるまでに如何程もかからなかった。
の小十郎さんに対する「好き」が、隣のクラスの男の子が好き、部活の先輩が好き、そういった同年代の子たちの恋愛とは本質的に異なっていることに気付いたのは中学生に上がってすぐのこと。
それがいけないことだという事実にもすぐに気が付いた。

「小十郎さん、いつもこんな時間まで仕事してるの?」
「まあな」
「そんな生活じゃ彼女もできないね」

そう皮肉ると、今日初めて小十郎さんは声を出して笑った。
密室の閉塞感が和らぐ。

「小十郎さんって結婚とか出来なさそう」
「言うじゃねえか」
「わたしのほうが先だな、きっと。コンカツしたほうがいいよ」
「耳が痛い」

専務やらそのあたりがよく同じことを言って見合いさせようとする。そう言って彼は笑う。
お見合いと聞いて一瞬胸の中がひやりとしたが、彼の様子を見てまず見合いはしないだろうと踏んだ。
それきりまた会話は途絶えて、無言の密室はすべるようにわたしたちの家へと走る。

小十郎さんの顎に、少しだけ不精髭らしいものが見えた。喉仏は大きく出っ張り、首に走る筋肉の筋が浮き出ている。
ハンドルを軽く握る節高な指はよりも太く長い。前髪がうすく一筋だけ額に降りてきていた。
彼の腕に光る銀色の大振りな腕時計は、11時19分を指している。

やがて車はと、そして小十郎さんのマンションへと到着する。
低く唸っていたエンジン音が消えると、耳に痛いほどの静寂が襲った。
しゅる、と彼がシートベルトを外す音が聞こえた。室内灯の消えた車は暗い。
そこはまだ密室だった。

「…

自分を呼ぶ声に、顔だけ向ける。
小十郎さんの目がどこの光を反射しているのか、すこしだけ光って見えた。

「俺はお前の親でも先生でもない。だから説教は控えるが」

彼の低い、諭すような声を聴きながらはシートベルトの赤いボタンを押した。
かち、とロックの外れた音がする。

「もっと自分を大切にしろ」

そう言った彼の顔はとても真剣だった。
大人としての義務感からの偽善ではなく、恐らくそれが彼の本心なのだろう。

「どうして?」
「…?」

そう聞くと、彼の目が少し大きく丸く開かれた。
そうして少しだけ考えた後に、小さな溜息を吐く。


「どうしてもこうしても…お前が心配だからだ、


名前を呼ぶ声は穏やかで、向けられた目は酷く優しく緩められている。困ったように寄せられた眉間の皺さえも愛おしい。
しゅる、との身体を拘束していたシートベルトが解放された。
この密室の中で、ようやくの身体が自由になる。


「…じゃあ!」

勢いよく伸ばした手から逃げられなかったのは、彼に油断があったからだろう。
わたしに、こんなことをされる筈が無いという思い込み。それが彼の動きを鈍らせたのだ。
の伸ばした手は小十郎さんのネクタイを掴んだ。
遂に捕えた滑らかな布を思い切り引くと、引力に逆らわない彼の精悍な顔がこちらへと近付く。

大きく開いた目のなかに、自分の顔が見えた。
必死さに顔を歪め、彼を求めて懇願する、哀れな子供の顔。

、な…」

言いかけた言葉ごと、は彼の息を飲みこんだ。
触れ合った薄い皮膚の間に渇望していた熱を感じる。
は目を閉じなかったし、小十郎さんも閉じなかった。

吸い付いて、リップ音を響かせながら離れた唇を舐める。小十郎さんは状況が呑み込めていないのか、茫然とわたしを見つめている。
密室の時間はまだ止まったままだ。

「心配なら見てて。ちゃんと見てて。わたしのこと、見てて!」

そして好きになって。
あの殺し屋レオンが少女マチルダを愛したように、わたしのことを愛してほしい。
鉢植えの観葉植物のように、どこにいくにもそばに置いて欲しい。
歳の差が云々という邪魔な大人たちをスナイプして、倫理観を説く偽善者を黙らせて。





「すき…」





呟いた言葉は虫の羽音のごとく消えかけた弱い音だったけれど、密室はその音を漏らさずに彼の耳に伝えたようだった。
小十郎さんの唇が動く。
何かを伝えようと息を漏らす。
けれどわたしにはそれを聞く勇気もなく、時間を無理矢理に動かし密室を開け放った。

車のドアから逃げるように飛び出すと、冬が近づいた夜の空気がタイツの上から足を、制服の隙間から肌を指す。
後ろから「!」と呼ぶ愛しい人の呼び声が聞こえたが、それに振り向くことはしなかった。









(2010/10/31)