|
こちら、―……前に来ています!快晴ですね!ただいまの気温は30度!今年の夏も熱くなりそうで…― テレビから聞こえてくる陽気な女の声が耳に障る。ブーンと静かな音を立てながら、骨董品と言ってもいいレベルの古びた、年代物の扇風機がぬるい風を送る。 この暑さに対してそよ風のようなそれはあまりにも無力であり、額から背中から擽るように汗が流れた。 季節は5月の半ば。未だ暦の上では春だというのにも関わらず、既に太陽は真夏のような暑さを連れて頭上へ君臨していた。 レポーターの言う、現在の気温とやらに疑問を感じる。体感温度はそれを遙かに超えていた。 キッドは、冷たいフローリングの床に座り頭をベッドにあずけて目を瞑っていた。クーラーはまだ、使えない。 「あー」 間抜けな高い声が部屋に響き、キッドに送られていた僅かな風が消えた。薄目を開けると、錆のついた扇風機の前に座り込んだ小さな背中が視界に入る。 羽織ってきたパーカーを脱ぎ捨て薄手のキャミソールと短いジーンズのパンツ姿になりながら、扇風機の前で間抜けな声を出しているのは家の近所に住んでいる女だった。 「おい」 「あー」 「そこどけろ。風来ないだろうが」 渋々といった体で振り向いた顔は、実に不機嫌そうだ。やだ、と一言だけ返して、不機嫌な顔はまた扇風機へと戻った。テーブルの上ではすっかり氷が溶けきった麦茶のグラスすら汗をかいている。一つだけ開けられたクッキーの袋は、捨てられることなくその場に放置されていた。 かちかちと無機質な音を鳴らす時計は、午後一時を指している。 「お前、さっさと帰れよ…クーラーは付かねえよ」 暑いのに両親がクーラーの稼働を許可しないという訴えで昼前に突如やってきたこの女は、キッドの昼飯の素麺を半分食べて、さらにこの部屋のクーラーを稼働するよう要求してきた。 だが去年の夏の終わりに壊れ、来年になったら修理すればいいという怠惰により未だ放置されたままのクーラーは使うことが出来ない。はその点について、怠け者だの使えないだのと散々に身勝手な抗議をした後、さっさと帰ればいいものを未だここに居座っている。 扇風機の風に当たりながら素麺をすすりつつ、月曜に提出の課題をこなすというキッドの珍しく真面目な日曜の計画は木端微塵に砕けた。微力ながらキッドの涼に必死に貢献していた扇風機は、来襲した闖入者により敢え無く奪われた。 この強情かつ自分勝手な、面倒くさい女のテンプレートのようなが口で言っても聞くわけがないと一番分かっているのはキッドだ。だからこそいつもは力尽くで追い払うのだが、この暑さの中で無駄な体力を浪費する気にはなれなかった。 やってきた自分よりも随分身丈の小さな怪物は、今日は化粧のひとつもしていない。 着ているものもおそらくは部屋着の類だろう。 薄い水色に塗られた足の爪がてらてらと光っている。キャミソールの背が、一部汗で色を変えていた。 唇にだけは何か塗っているのか、色のない顔のなかで嫌に目立っている。 外見の割に、と言われるキッドの側面が、あの女の無防備さや他人の家とも思わない無礼さを注意しろと頭の片隅で囁くが、暑さがキッドから全ての能動性を奪っていた。 白い天井を見上げながら、また目を閉じる。この暑さではそのうち、脳が柔らかいアイスクリームのようにぐずぐずと溶け出してきそうだ。緩やかに停止しようとするキッドの思考を、しかし不満そうな声が無理矢理に起こした。 「ねえ、髪あつくない?」 いつの間にか隣に座りこんだが、滲む汗にくっついた赤い前髪を摘まんで言った。いつもは抗うように逆立てている赤も、今日は重力に従順に下に落ちていた。 いつもは冷たいの手が今日は熱く感じる。小さな掌はキッドの額を滑り、前に落ちていた髪を後ろへ流した。しかし赤はには従わず、また前へと落ちかかってくる。 それをまたの手が掻き上げた。その動作が数度繰り返されてやっと、キッドはを掴みそれを阻止する。 その手首が、キッドの手が一周してもまだ余るほどに細く、この女はこうも華奢だったかと頭を捻った。 いたいーと間抜けな声を出して引っ掻こうとする手から逃れて、視線を下す。 今年はまだ日に焼けていない脚が目に入った。 「そうだ、これ前髪につけると邪魔にならないよ」 「最初から邪魔じゃねえっての」 そう言って取り出されたのは、玩具のような光る石が付いたゴムだ。 が今度はあからさまに何かを企む悪餓鬼のような表情で手を伸ばしてくる。 やめろ、いいじゃん、よくねえ、まあまあ、やめろってんだろ。 野良猫の争いのように伸ばされた手をはたくやり取りを繰り返した後、ようやっとその両腕を捕える。 「離せけち!」と喚くが、窓から入る光を遮って目の前を暗くした。手を掴まれても猶諦めない往生際の悪い女が、覆い被さるようにしながら赤い髪に手を伸ばす。 の肩紐がずるりと落ちかかったとき、キッドは反射的にの手を解放した。 「素直でよろしい」 拘束を解かれたの手が前髪に伸びる。小さな手に赤がまとめられていくのを感じながら、キッドはぼうとした頭でを見ていた。 乗り出した身体の線が目につく。暑さで頭が沸いてしまったらしい。 白い腕は動いていても筋肉の線をうつさない。くっきりと浮き上がった鎖骨はなめらかな曲線を描く。 相手が自分とは違う生き物であることが急に意識されて、目のやり場に困り俯く。 すると今度はショートパンツから伸びる脚に注意が向いた。 「お前はなんだってそんな恰好を…」 「なにー?」 「何でもねえよ」 無様にまとめられた前髪が、窮屈に頭皮を引っ張る。 キッドくんかわいいですねーと小馬鹿に笑う目の前のという生き物は、こうして時折、青い春を生きる脳を揺さぶるのだ。 健全な思考は年相応に、視線は白い腿に落ちる。 扇風機の微弱な風では、耳に集まる熱い空気を飛ばすには不足すぎた。 「暑いねー」 「…そうだな」 筋の浮き出た、片手で掴んでしまえそうな首から一筋の汗が流れて光るのを食い入るように見つめる。 キッドを悩ませるこの夏の獣は、今日はいつまでこの部屋に留まるつもりなのか。 無意識のうちに、その獣に向かって伸ばした自分の手が視界に入り、忌々しく舌打ちをしながら手を投げ出す。 諦めたように、キッドはまたベッドに頭をあずけて思考を停止させた。 怠惰の日曜の午後が過ぎる。明日は、月曜日だ。
夏の獣 (20110514) |